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楼主: 娇娥

了解我们的兄弟社区——木之花(桑园草翻译)

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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 12:33:53 | 显示全部楼层

地球意識から銀河系意識へ
4月29日(金)~5月1日(日)の3日間に渡って、希望の光プロジェクト第4回イベント「新しい世界を描き出す」が、木の花ファミリーにて開催されました。
今回のイベントでは、事前に準備されたプレゼン資料を紹介するだけではなく、その場で多くの実りのある話が湧き出し、今までとは一味違った内容のものとなりました。
(イベント終了後の記念写真)
今回のいさどんブログでは、イベント2日目にいさどんが語った銀河系意識の壮大なお話をご紹介いたします!

「地球意識から銀河系意識へ!!」
冥王星が示す248年の周期によると、今から約一周前の1760年にイギリス産業革命が起こり、1766年にアメリカ合衆国が建国されました。それから248年が過ぎた2008年リーマンショックがあり、それから8年が立ちました。ですから今、パナマ文書が世界で話題になっているように、250年前に始まったイギリス・アメリカの価値観の闇が暴き出されているのです。イギリス産業革命以降、世界をリードしてきた国々が今、混乱に陥っています。それは、250年間続いた物質至上主義の世界の終焉を意味しているのです。
このように捉えると、安倍首相は首相になった当時、その価値観の延長に未来を夢見て、「強い日本、豊かな日本をつくっていくことがわたしに課せられた課題」と強調しました。しかし、宇宙的に観ると、もはや物質的な豊かさだけを求める時代は終焉を迎えていることが理解できれば、今やその価値観の延長に何をやっても上手くいかないことに気付くのです。ところが、安部首相はじめ今の世界のリーダーたちの思考は自国の利益のみを優先し、経済一辺倒になってしまっているのです。ですから、安倍首相にはこの「希望の光」の場にいていただきたいと思いますし、7月に開催される大人サミットにはぜひ来ていただきたいと思っています。
本来、この世界に存在するものはすべて、螺旋を描きながら宇宙空間を移動しています。ですから、そこに軸が通るのです。それとは逆に、軸のない邪(よこしま)な回転だけでは、思考回路が行ったり来たり回り続けているだけの状態です。
これは、COP20でも今度開催される伊勢志摩サミットでも同じです。そこでは今の世界の現状を画期的に改善する結論は出ないのです。それは現代医療の現場で行われている対症療法と同じで、たとえばテロ対策はどうするのか、北朝鮮をどう扱うのか、とすべて起きたことに対して対症療法をしているだけなのです。ですから、いろいろなところで問題が起きても、もぐら叩きのようにそのたびに対症療法の思考を回しているのが現状です。
そこで、G7と言わずに、もうひとりG(爺)を入れて、G8にして、僕を入れればいいのです(チーン♪)。みなさん、そう思いませんか(みんな、笑)? G7と爺1!
個人は、リーダーが悪いと言います。しかし、それは昔の話であって、王様が悪いから国がよくならないとか、宗教家が悪いから人が悟らないという時代から、これからは白陽期と呼ばれる「庶民の時代」です。つまり、わたしたち一人ひとりが目覚める時代です。
あなたが目覚めれば、それにふさわしく国会議員を選びますよね。一人ひとりが目覚めたら、選ばれるリーダーも変わるのです。「クニ」の思念をカタカムナで紐解くと、「自由が定着したところ」という意味になります。それは、民衆が自由に振舞って調和を表現する世界です。ですから、クニとは民衆の自由意志によって、その意志にふさわしいリーダーが選ばれるべきです。どのような独裁国家であっても、民衆の心が離れたら存在することはできません。そうすると、なぜ独裁国家があるのかというと、それは民衆が支持しているからなのです。たとえばミャンマーが長い間軍事政権を続けてきたのも、アメリカ型の発想からすると、アメリカの考えに乗らない軍事政権が悪者扱いされていたのです。しかし、ミャンマーの中には軍に所属する人がいて、その一人ひとりには家族がおり、そこから送り出されていたのです。それは民衆の中から軍に参加していたことになります。ですから、軍が民衆に支持されていたからこそ、軍事政権が続いていたという捉え方もできます。それをわたしたちは、アメリカ型報道によって民主国家ではなければダメだと刷り込まれていたとも取れるのです。そこにはそれにふさわしい存在すべき理由があったのだと思いませんか?
これからの時代、一人ひとりが目覚めて世界のリーダーを選べば、世界は変わります。いつの時代でも、リーダーは必要です。ただ、トップダウンの形態によるクニの治め方ではなく、今の木の花ファミリーのような皆の総意によってなることが大切なのです。
それは、「地球意識」から「銀河系意識」になるということです。太陽系のリーダーは太陽ですね。太陽系では、太陽が惑星を引き連れて共同で太陽系を運営しています。ところが、銀河系には太陽はありません。銀河系の中心で光っているセントラルサンは、古く年老いた星の集合体です。老齢の恒星が中心に引き寄せられて、恒星だから光るのです。それが中心に集まった恒星群が太陽のように光っているだけなのです。それは、長老が集まって方針を決め、若い者たちが運営するという全体性の中にあります。かつての原始的な社会やカタカムナ人はそのように生きてきました。
ですから、これからは「銀河系意識」の時代です!わたしたちは太陽からいのちをいただいていますが、それを銀河系からいただく時代が訪れています。それは、物理的な光から「アマハヤミ(思念の速度。光の速度の10の64乗)」を基軸とした意識によって生きるということです。そのほうがはるかに速く、優れています。
地球意識から銀河系意識へ!!
これからの時代、新たな世のクニツクリをするのは、わたしたち一人ひとりです。



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 12:34:17 | 显示全部楼层
从地球意识进化到银河系意识

429日—51日,第四回希望之光活动以“描绘新世界”为主题,在木之花召开了。

这次的活动除了介绍了事前准备的资料外,在会场还涌现出了许多优质的思想。这次活动十分成功,与之前几次相比别具风格。

这回的isadon博客来向大家介绍isadon十分给力的演讲:从地球意识到银河系意识。

冥王星248年的周期显示,1760年的今天的一周前,英国发生了工业革命,1766年美国合众国建成。248年后的2008年发生了金融危机,之后到现在的2016年又过了8年。现在,随着巴拿马文书成为世界话题,250年前开始的英美价值观的黑暗面开始暴露。英国工业革命以来,引领世界的国家正在陷入混乱。这意味着持续了250年的物质至上主义正在瓦解。

安倍上台之后,为了延长物质至上主义价值观,就强调:创造一个更强大、更富饶的日本是我们的课题。然而,从宇宙视角来看,仅仅追求物质的丰富的时代已经迎来终结了。如果能够明白这一点,就会发现想要延长那个价值观是不会顺利的。但是,安倍只优先考虑自己国家的利益,采取经济一边倒的政策。因此,我希望安倍能到这个“希望之光”的会场来,也希望他能来参加7月份召开的大人会议。

本来这个世界所有的存在都是以螺旋状在宇宙空间中移动的。因此里面有轴在通过。反过来,如果是没有轴的不正常的旋转,思考回路就会处在来回移动的状态。

这和COP20以及这次召开的伊势志摩会议是一样的。会议中没有找到改善当今世界现状的方法。这和现代医疗的对症疗法一样,比如如何对付恐怖主义,北朝鲜的事情如何处理等等,全都是治标不治本的。就像打地鼠一样,这边打下去那边又出来,永无止境,这就是对症疗法造成的现状。

因此干脆别说G7了,先输入个G(爷),然后变成G8(鸡巴?哈啊哈哈!),然后再把我放进去就好了呢(灯,等灯等灯)。大家难道不这么想吗(大家,笑)G7和爷1

我个人觉得安倍不行。但是,这已经是老话了,一国之主昏庸,国家也就起不来,宗教家不好好传道,人们就无法开悟,这已经是过去时代的事情了。现在是庶民的时代。也就是说,我们每一个人都开始觉醒的时代。

如果你自己觉醒的话,就会选择合适的国会议员。每个人都觉醒的话,就可以选一个好首领。如果用katakamuna来解放国家的话,自由就是囊中之物。那是大家一起和谐生存下去的世界。因此应该由国民的自由意志(这里的自由意志应该是指符合道性的自由意志)来选出适合的国家领导人。无论是什么样的独裁国家,失去民心就不会长久。因此为什么独裁国家会存在,是有大众在支持。比如说缅甸持续了很长时间的军事政权。自从缅甸模仿美国的政权模式,就一直被不想按照美国模式的破坏。但是,在缅甸的军队里有一个人一个人组成的家族存在,在那里意见被传出去。在缅甸民众可以加入军队。因此,正是因为军队有民众在支持,军事政权才持续下去的。咱们国家也是一样。

接下来的时代,如果每个人都觉醒然后选世界领导的话,世界就会改变。无论是什么时代,首领都是必要的。只是,不是由上而下的治国方法,而是像木之花这样大家全体来决定是非常重要的。(感觉isadon很民主呢)

这就是从地球意识进化到银河系意识。太阳系之主是太阳。在太阳系,太阳引导行星在适合的位置上稳定的运行。但是,银河系中没有太阳。银河系中发光的是古老的星星集合体。老龄的恒星被牵引到中心,发出光芒。那些恒星群仅仅像太阳一样发光。经验丰富的长老们聚集在一起制定方针,年轻人就在全体中执行。这曾经就是原始社会以及katakamuna人的生活方式。

因此接下来是银河系意识的时代!我们虽然从太阳获得生命,但是接下来从银河系获得生命的时代要来临了。那就是以物理的光(amahayami(思念的速度,光的速度的1064乘方)为基础,用意识生存下去的时代。这远远比太阳时代要快得多,好得多。

从地球意识进化到银河系意识!
接下来,创造新时代的国家的,是我们每一个人。



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 12:50:47 | 显示全部楼层
月別: 2016年4月一瞬一瞬新たな自分に生まれ変わる~4月8日お釈迦様の誕生日にて
4月8日、木の花ファミリーメンバーのゆう君とあきちゃん、そしてお釈迦様の誕生日を祝って、みんなでハッピーバースデーを歌いました。ゆう君とあきちゃんが誕生日を迎えてコメントをした後、いさどんは以下のように語り始めました。
いさどん:
今、みんながハッピーバースデーを歌ったので、4月8日が誕生日であるお釈迦様から言葉がありました。
お釈迦様の言葉は、僕の言葉という自負心をもって生きています。なぜ一年を区切りとして誕生日とするのでしょうか。
時は永遠に続いて、一年というのはその中の通過点ですから、一秒でも、一日でも、一ヶ月でも、一年でも、十年でも、一生でも同じなのです。
お釈迦様が伝えられたことは「目覚める」ということ。
目覚めるとはどういうことでしょうか。それは眠っている人が起きて、眠っているうちにわからなかったことを知る。そう思うでしょう。そうすると、肉体をもって生きているということは、今自分が知らないことを知るということになり、「そうだったのか」という目から鱗のような気付きを、みんなは目覚めだと思うのです。
それもそうなのですが、実際には少し違うのです。ここでの目覚めるということは「悟る」ということ。悟るということは「差を取る」ということ。
何と何の差を取るのかというと、お釈迦様は「自分と宇宙」と言われました。自分というものに目覚めると「自我」が発生します。そして常に自らの解釈がこの世界を図っていくのです。
般若心教では・・・
「色即是空 ……(※ここでいさどんは般若心教のお経を唱え始めました)」
今、「無」ばかり出てきましたね。これは「ない、ない、ない、ない」と言っているのです。それは、自分という意識を持つと
この世界を自らの秤をもって図るのでこの世界と自分に差ができる、ということです。そして、自らの秤を持たないようになる、つまり図る自分がなくなれば、この世界が「ない、ない、ない・・・」と思えるようになるのです。そしてこの世界が「絶対有」であるという状態になるのです。今日はゆう君の誕生日ですからね(チーン♪ 笑)。
そこで、「絶対有」とはどのような「有」かというと、すべてが自分自身である、ということです。
自分とこの世界に差がある状態を悟りとは言いませんね。人は自らの解釈に依らない境地になったときに差が取れて、この世界すべてが自分になるのです。
今日お釈迦様の誕生日を祝い、あきちゃんとゆう君が誕生日にあたってコメントをしたので、今、僕はお釈迦様に代わってコメントしました。
そしてお釈迦様は、己とこの世界(宇宙)はどういう関係なのか、「私は宇宙、宇宙は私。」そうすると、区別はどこにあるのか、「あなたは私、私はあなた」という意味、そして私の存在、私の伝えたこと、私の悟り・意志とは何なのかを語って伝えてくだされ、と言われたので、お釈迦様に代わって代弁させてもらいました。
己と宇宙は区別することのできないもの。
これは大それたことでしょう。今日を誕生日とすることは、一年を区切ることであって、振り返ってみれば、わたしたちは皆、何年何月何日の何時何分何秒に生まれてきたのです。実は、毎日誕生日が来るのです。誕生日だけではなく誕生秒がきて、誕生分、誕生時、誕生月がくるのに、なぜ一年にたった一日だけを祝うのか、と言われました。

ゆう君:
いさどんの話を聞いていて今、思いついたことは、全員死神に迎えに来てもらうといいなということです。それは、「今までの自分が死んで、新たな自分が生まれる」という意味です。
いさどん:
それが誕生日の意味です。今までの区切りなのですから、どのような区切りでも、今までの自分が死んで、そして新たな自分が生まれるのです。極端に言えば、一秒一秒今までの自分が死んで、新たな自分に生まれ変わることができるのです。
ある意味、死ぬことは「絶対救済」「完全救済」です。死とは生きることの終着地点ですからね。生きる目的の全ては死(四)へ向かっているのですから、五、六、七、八、九、十はないのですよ(笑)♪



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 12:54:36 | 显示全部楼层
在每一个瞬间创造新的自己—纪念48日释迦的生日
48日,木之花成员勇哥和秋姐为释迦庆祝了生日,大家一起唱了生日快乐歌。勇哥和秋姐做完笔记之后,isadon说了如下这些话。
Isadon
现在,大家在为释迦唱生日歌,我这边释迦传话来了。
释迦说的话,用我们这边的话来讲,就是我们正在带着自负心生活。为什么要把1年分隔开来,搞个生日呢?
时间永远在流逝,如果把一年分成无数个点的话,一秒也好,一天也好,一个月也好,一年也好,十年也好,一生也好都是一样的。
释迦想传达的是“觉醒”二字。
那什么是觉醒呢?那就是沉睡的人醒来,明白了在沉睡的过程中不明白的事情。你们是这么想的吧?那么,带着肉体活下去,逐渐明白了现在不能明白的东西,恍然大悟:哦!原来是那样呀! 这就说明大家觉醒了。
虽然这么说,但是实际上有些不同。刚才那个觉醒是“悟”的意思。悟就是“看到差异”。
看到什么样的差异呢?释迦大人说是自己和宇宙的差异。觉醒自己之后“自我”就诞生了。之后人们就按照自己的解释来勾画这个世界。
般若心经说:色即是空。。。。。。(这时isadon唱起了心经)
刚才,“无”出现了。这叫做“没有,没有,没有,没有”。因为我们持有自己的意识以及对这个世界有衡量,因此世界与我们就有差异。然而,如果自己不再有衡量,也就是说自我消失的话,这个世界就会“没有,没有,没有...”。然后这个世界就会变成“绝对有”的状态。因为今天是勇哥的生日呢。(笑)
那么,什么样的有是绝对有呢?那就是一切都是自己。
如果自己和世界还有差异,那么就不是开悟的状态。如果人到达了不再依赖自己的解释的境地,那么这个世界就全变成了自己。
今天我们庆祝了释迦的生日,今天同时又是勇哥和秋姐的生日,他们在做记录。现在,让我代替释迦来说些话。
释迦说自己和这个宇宙是什么样的关系呢?是“我就是宇宙,宇宙就是我”。这样一说,区别在哪里呢?“我就是你,你就是我”的意义,还有我的存在,我所传达的东西,我的醒悟·意志到底是什么?现在我来代替释迦回答。
宇宙和自己是不可能分别的。
这很狂妄是吧?拿今天的生日来举例,我们想当然的认为一年过一次生日,但是重新审视的话,我们生于何年何月何日何时何分何秒呢?事实上,每天都是生日。不仅仅是诞生日,还有诞生秒,诞生分,诞生时,诞生月等等,为啥我们一年只庆祝一次生日呢?
勇哥:
听了isadon说的话,我想到的是,我们所有人都来迎接死神就好了。这是“过去的自己死了,新的自己又诞生了”的意思。
Isadon
这就是诞生日的意义。因为我们自己制定了一年一次的生日,但是无论怎么制定,自己都在不断死亡,不断新生。极端点说,如果我们每一秒都死去的话,就可以每一秒都新生。
从某种意义上说,死就是“绝对救济”“完全救济”。因为死是生到达的最终地点。如果生活的目的就是奔着死(四)而去的,五、六、七、八、九、十就没有了哦(笑)。

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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 12:57:17 | 显示全部楼层
社会という池に、あなたは何を流しますか
「1ヶ月間の真学校」修了を4日後に控えた3月8日の夜、受講生たちも参加しての大人ミーティングで、いさどんは以下のように語りました。
この日、長野県の皆神山を訪れた帰り道に富士山の前にて、受講生たちと一緒に
いさどん:
僕の心にある絵が浮かんできました。
そこに池があります。
その池が汚れているかいないかは、その周りで生活している人の姿勢の現れなのです。自分の生活の仕方を振り返らない人々は、池が汚れていることの原因に気が付きません。
池の水は自分たちの命であり健康や幸せの元です。しかし自らの姿勢を見ないものにとっては、その池が汚れているのは、「世の中のせい、他者のせい」なのです。しかし池をきれいに保つためには、誰の心にも共通する姿勢がないとなりません。
「私たちは、その命の池をきれいにして、みんなで美しく保ち、そして健康に生きていきましょう。」
この池というのは、私たちの創っているこの社会のことです。
その社会に向けて自分がどんな響きや心を流しているのか。
その結果、今の社会というものをつくっているのです。
誰もが自分は健康でありたいと思い、池の水を飲むときに、健康な水をいただきたいものです。
しかし、その社会の池を作っているのは、あなたなのです。
そこで「あなたはきれいな水をいただいて健康に生きていくということをしたくありませんか」と言ったら、誰もが「そうしたい」というのです。そのためには、あなたが流す心の水をきれいにしないと、社会の水・池はきれいにならないのです。簡単なことですね。
それをするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、心の目を開けて自らを観ることです。
自らが美しくなっていけば、同時に自らを取り囲む社会もきれいになってゆくのです。
そんな明快で当たり前の道を、今の時代を生きる人々は忘れているのです。
そんな当たり前のことですが、それをただひたすら真面目にまじめにやっていけばそれが世の中を美しくすることになり、それがこれからの見本となるのです。簡単なことでしょう。
それなのに、きれいになることを「損をする」ことのように思い、素直に受け取らず、ゆがんだ心で社会の池を汚して生きている人たちがいるのです。
あなたはあなた自身をどうしたいのか、生活の糧としてある大切な社会の池をどうしたいのか、そこに暮らす一人一人が自らに問うべきだと思うのです。
そんな映像が今浮かんできたのですが、これはとても明快な話なのです。しかし、世の中にはこのことを明快に理解して生きる人が、まだまだ少ないのです。せめて私たちは、この場をそういった明快な人たちの生活の場としての見本にしたいものです。
真学校に参加された皆さんも、自らがこのプログラムに参加する前にはどのような心だったのか、そして今どんな心をしているのか。
これから真学校が終わって次のステージに旅立っていくときに、どのような心で旅立ちたいのか、自らの価値としてあなたはどんな自分でありたいのか、正直に自らの心に向き合い、そして、真学校の終了を迎えてもらいたいと思います。


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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 13:00:16 | 显示全部楼层
在社会这个池塘里,你在做什么

一个月的真学校结束后的第四天,38号的晚上,在听讲生也参加的大人会议上,isadon说了如下这些话。

Isadon

我的心中浮现出一个画面。

有一个池塘。

这个池塘的污染程度多少,反映出了周围的人生活的状态。没有反省自己生活方式的人,没有发现池塘被污染的原因。

池水是自己的生命,也是健康和幸福的源泉。但是对于没有觉察到自己行为的人,池水被污染是这个世界造成的,别人造成的。但是为了保持池水的清澈,每个人都必须晒出自己的心。

我们把生命的池水清洁干净,大家就可以保持美丽,健康的生活下去。

这个池塘就是我们创造的社会。

我们对这个社会产生了什么样的影响呢?今天这个社会的现状就是结果。

谁都想健康的活下去,当喝池水的时候,想要喝到健康的水。

但是建社会这个池塘的人是你。

如果被问起:你难道不想喝干净的水,健康的活下去吗?谁都会回答:当然想。既然如此,你不把自己内心流出来的水清洁干净的话,社会的池水就不会变干净。这是十分简单的事情。

那我们该怎么做到呢?那就是,打开心目,观察内心。

如果自己变完美的话,那么周围的世界也会变完美。

这么光明而又理所当然的道路,生活在现代的人正在忘记。

像这样理所当然的事情,只要一个劲儿地认真地、认真地做下去的话,世界就会变得美好,然后这样的行为也会成为榜样。十分简单的事情。

虽说如此,也有人认为让社会变得美好是件坏事,他们不愿坦诚地接受,用扭曲的心灵污染社会的池水。

你想如何对待自己呢?如何对待作为生活的食粮的这个重要的社会呢?我觉得这是每个人都应该思考的问题。

当我想到这些的时候,我觉得这是十分清晰易懂的话。但是,在这个世界上能够很清晰的理解的人,还太少了。但是至少我们在努
力,我们现在所做的一切就是在为人类做榜样。

参加真学校的大家,参加之前是什么样的心境,参加完之后又是什么样的心境?

本次的真学校就要结束了,当下一次真学校开办的时候,大家准备带着什么样的心情来参加呢?大家想成为什么样的人呢?希望大家好好询问自己的内心。接下来,我宣布本次的真学校结束了。

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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 13:00:43 | 显示全部楼层
东方智慧开花的时代

写在开头:

本篇文章是曾经发表在2015年1月号的世界建筑(“World Architecture.”) 杂志上的无删减版原文。而杂志上发表的时候根据需求编辑进行了适当的删减。

“东方智慧开花的时代”

大概在十年前,有位中国女性来到日本富士山脚下的木之花家庭,兴奋的说道:“我在中学时认识了理想的共产主义。从那以后,我一直梦想着那样的世界,但从来没有遇到过。但是今天,我从共产主义的中国来到资本主义的日本,并在资本主义的日本木之花家庭遇见了理想的共产主义!”

自1981年起,创始人古田偉佐美得到了觉醒,并开始为各种社会上的问题提供建议。大部分的人在自己的问题得到解决后便离开了。但是对我们的精神和 这个世界的结构感兴趣的人们开始聚集起来,形成了精神学习小组(后来其中很多人成了创始成员)。他还从人类的行为给美丽的地球所造成的伤害中,认识到了与 地球上所有生命和自然和谐生存的重要性。

1992年,在神山富士山顶上,他得到了觉醒:“将你从天道中领悟并学到的精神传给所有太阳之下的国家吧”。太阳之下的所有国家,不仅指的是日出之 国日本,更是指世界上所有国家。地球上所有的生命,在同一个太阳,同一个大地, 同一片水,同一个空气,同一个风之下生存着。为了将这个精神传递给所有国家,以富士山作为天线,于1994年,20名成员创立了木之花农园,之后将其改名 为木之花家庭。“木之花”的名字取自富士山的主神“木花開耶姬”。

社区的建设进程实际上并没有那么简单。现代社会的人们只考虑自己的意愿,只想满足自己的欲望并把它当作幸福。但是在真正的意义上,个人的幸福应该是 要与家庭的幸福,国家的幸福,人类和地球的幸福一致的。还有,现代的人们并没有做好准备将自己的所有物包括心拿出来共享,这在木之花的成立成员中也是一样 的。为了克服这种状况,有一个超越人类的自私之心并拥有广阔的视界观是非常重要的。为了达到这个目的,木之花家庭在社区建立之初起最重视的便是磨练心性。 在宇宙中生存,意味着是在走一条不断进化,成长,变化的道路。每一个成员都在尝试着在日常生活中通过认真的观察和直面自我来超越私欲。

现在,我们建立了一个高度共享的社区,由100名(其中有80名成员和访客)超越血缘的成员们相互连接和支持组成的一个大家庭。曾经教过我们养蜂的 一位养蜂专家这样说过:“木之花家庭的生活简直就是蜜蜂的社会啊!”那是一个个体不强调自己,而是贯穿一生将自己奉献给整体的一种世界。后来,我们也听说 马克思曾对蜜蜂的社会感兴趣,于是就联想到会不会共产主义的原本核心思想来自蜜蜂的理想社会呢。

就像地球上的生命在不断变化和进化,木之花家庭也在过去的20年间经历了惊人的变化和进化。我们的生活方式不仅是对环境友好和可持续发展的,更是超 越了一直以来的生态村的概念:我们用一个自创的名称命名这种不曾有过的生活方式为“天然循环法”。这个名字是基于约13000年前日本曾经存在过的 Katakamuna文明的宇宙物理学取的。Katakamuna的80个歌谣将宇宙的产生,发展,灭亡用48种声音的波动来表现。Katakamuna 人的最大的特点是理解所有的事物是由波动形成的并在社区中用直觉生活。

天然循环法反映在所有我们日常生活的领域中:农业、食物、经济、社会关系、教育、育儿、环境、艺术、医疗。木之花家庭是以农业为基础的共同体,而从 Katakamuna的观点看,“農”(农)字意味着人们为了满足自己的欲望并得到更多的金钱而扭曲生命的本意。所以,农不是自然的本来姿态。

在发展天然循环法之前,我们实践了不使用农药和化肥的有机农业。为了在田地里使用鸡粪我们开始了养鸡,而且为了发酵粪便和谷物的叶面喷施以及家禽的 饲料和饮用水培养了以EM(有用微生物群)为基础的木之花菌。结果,我们实现了没有恶臭的健康环境,生产出了安全的农作物。但是,在低生产量和预防疾病方 面这种栽培方法离我们的理想还是有相当距离的。那之后,通过与某自然农法研究中心的交流以及通过使用绿肥、碳素材质、海草等的使用,我们的农法有了稳步的 进展。也许无法相信,现在我们的食物自给率是1000%!我们生产量达到了所消费10倍的量。而且在2013年,我们最终命运般地遇上了 Katakamuna,并开始了解宇宙的内在系统。

通过天然循环法,我们从潜在世界中将波动应用到田地(显在世界)里,并通过养育农作物来学习宇宙系统。结果,我们将会得到充满生命力的美妙的农作 物。我们不仅仅是将潜在世界的波动应用在田地里,更是为了让所有的事物都变得美丽和充满能量而应用在日常生活的所有领域中:如在做料理时、在提炼味素和酱 油时、在清扫时、在育儿时、在养蜂和养鸡时、在办公室工作时、在社区会议之前统一意识时等等。只有当人们在日常生活中提升灵性并理解了宇宙系统(潜在世界 和显在世界的宇宙中,所有的存在物都是以螺旋状循环着的)时,感受潜在世界波动的直觉才能在人类的意识中开花。通过与Katakamuna的相遇,我们觉 察到磨练心性才是世界上所有事物中最基础的,并确信了我们把精神性放在第一位的生活方式。

当那位中国女性在木之花家庭遇见到理想的共产主义时,我们曾这样告诉她:“我们的社区不是建立在共产主义精神上的。这是一个将宇宙中星星之间的关系、地球生态系统以及我们人类的身体结构反映到我们日常生活之中的世界。而且,这才是全人类最终要到达的超过所有宗教和思想的理想世界”

自进入21世纪以来,我们经历了全球规模的社会的环境的经济的和心理的磨难。人类追求幸福的结果,人类的行为给美丽的地球带来了什么?所有这些全球性的问题都是由人心引起的。不管发展多么先进的科技,建造多么优秀的建筑,是人的心决定它成为有益的或有害的。

我们住在宇宙旅行中的地球上。我们共同生活在同一个太阳、同一个大地、同一片水、同一个空气、同一个风之下。更重要的是,我们生活在同一个时代里。 也就是说,我们都是同一生命体的兄弟姐妹,并在天然循环之中承担着地球这一个生命体的一部分。就这样,我们的生命在远超人类智慧的宇宙系统中延续着。

这就是全息的东方智慧和Katakamuna的世界观。Katakamuna文明来到亚洲的时候,日本列岛还是和亚洲大陆联在一起的。 Katakamuna通过中国传到印度,在印度发展成佛教后,加上中国的道教,然后又回到了日本。也就是说,Katakamuna以及木之花家庭社区的精 神,早已存在于中国的共产主义理想之中。这就是为什么中国女性会在木之花家庭感到了理想的共产主义的原因吧。

Katakamuna一直被封印了6000年。但现在,随着银河系的冬至黑暗的最高峰2012年12月21日的到来,最终解开了封印。时代已从西方的物质文明转向了东方的精神文明。Konohana(木之花)的“hana”在日语里是”花”的意思。这里的花指樱花(人的生命之美)、梅花(健康之 美)、还有桃花(乌托邦之美),这些也代表日本,韩国,中国等国家。本来我们就是兄弟国家。所以我们重新走到一起并建立一个理想的东亚地区并向世界展示一 个理想的模型是很重要的。太阳之下的所有国家将从日本,中国,韩国,亚洲展开到全世界。21世纪将是东方的智慧在全世界开花的时代。

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天际 发表于 2017-5-10 13:02:01 | 显示全部楼层
木之花社区发展了那么久,已经是很成熟的社区了,因为共同的梦想,与生命绿洲联盟,必定给人类带来更多的贡献的!
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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 13:06:50 | 显示全部楼层
お釈迦様の時代の悟りから、新たな時代の悟りへ
ある日の大人会議で、「いさどんの七夜物語」シリーズ第六話がシェアされました。

こうちゃん:
この七夜物語の第六話には僕のことがたくさん出てくるんだけど、自分を振り返ってみると、あのころから比べて意識的にとても変化したと思う。これはとてもいいなというか、誇れるというか、今日読み合わせた七夜物語の第六話の中でいさどんが話した境地までは、まだ至っていないと思うけれど、この先が楽しみだと思います。
これを読んで、みんなは「自分が主役であること」や「一人一人が全体性を持つことが大切」と言っていたが、それと同時に僕が思うのは、こういった意識を七夜物語のところからずっと育ててもらったのだと思っています。
この意識を日常でいつも持っていたら、常に自分が主役であるという意識を持つことや全体性を意識して心がけることに加えて、世界観を広げる意欲があれば、その延長に着実に歩んでいることを感じられるし、今度アンテナショップもできることになったので、そこにこの心をもっていけば、外の人たちに異次元空間は提供出来ると思っている。
いさどん:
人間に生まれてきた「性(さが)」、これを人間性といいますが、その人間性は生きているとどのレベルかということが問われます。人として生まれてくるものの特徴は、思考回路が複雑で、願望を持つようになり、さらに願望を膨らませることもします。そこに、長年生きてきた結果しみついた心の癖(カルマ)に翻弄されて生きれば、さらに複雑な生を生きることになります。
そういった生を通しての経験は、垢を取り去り、意識が高まって高次元の美しい人生を生きるようになるのが本来の在り方ですが、人間の性(さが)というのは低い次元の状態でいると、しみついたカルマが垢として、高次元の美しい人生に到達することの障害物にもなるものです。そして、そこで得た経験やものが執着となり、さらに人生の足かせになっていくものなのです。
現代社会において、高い地位や優れた能力を発揮し、評価されているような立場の人々が、その立場に相応しい立派なことを語っていても、その人の奥にある精神性が、自我そのものであるということが今の世の中にはたくさんあるのです。優れた能力を発揮したからといって、その奥にある性質により、その人自身の霊的な価値は図れないのです。結果それでお金儲けに走ったり、その立場に執着するようであれば、世の中に混乱をもたらす原因にもなるのです。
それは、今の時代の成功者として評価されているリーダーたちや、政治家、経済人、宗教家、教育者などなど、そういった人たちが多いのです。そのような人々は、自らの内側に向き合い、自分の魂を潔く禊ぐくらいの精神を持っていかなければ、自らは善い行いをしていると思っていても、世の中には混乱をもたらす原因となり、霊的には罪人にもなるのです。
そういった現代のからくりが、今ひも解かれる時を迎え、社会ではその裏側が各方面で暴露されてきています。パナマ文書はその一つの事例です。そのような現象は、今地球のマグマが活動期に入り、世界中の火山が活発に活動し始めたように、それはある意味、精神世界の火山が噴火し始めたようなものです。このような世の中の闇の部分は、これから益々暴かれていくことになるでしょう。
そういった時代を表現する人間の性(さが)に対して、その昔お釈迦さまは仏法を通してどのように道を示したのでしょうか。すべては、自分という認識が成立することによって世界を解釈し始めることから始まります。人のすべての解釈は、自我の成立から始まり、その自我の位置を基準としてそれを尺度とし、この世界を図り始めます。ですから、始まりの始まりは自分というものの成立から始まっているのです。
一体全体、人間とは何者なのでしょうか。そして自分とは何者なのでしょうか。ほっておけば悩むし、ちょっと迂闊にしていれば腹も立つし、妄想も膨らませれば、願望も膨らみ、それに囚われればことが成らないといって萎縮もするし、ことが成れば自信過剰にもなる、感情の荒波に翻弄される複雑な存在です。それが、それぞれの個体で個性的な特徴を有し、無数に存在しているとしたならば、このような不可思議な生き物がほかにいるでしょうか。
そんな人間の中の自分というのは何なのか。自分が存在するばかりに、この世界を解釈するのです。その解釈は、人間の数ほど尺度があり、人間の数ほど物事の捉え方が違うのです。それを客観的に観察すると観えてくるものがあります。その目線は、自分というものの自我の窓を通してしか外が見えない。どんなことをしても、自分以外の窓から見ることはできないのです。そして、この自分というものをどのように捉えるのかというと、お釈迦さまの示された道はネガティブモードの道だったのです。
その道の始まりは、生老病死に始まり、人生の全ては四苦八苦なのですから。だから、この世界に生まれ存在することの全てが苦痛であると、説かれたのです。そして、生まれ出ることが苦痛の始まりであり、生きることが苦痛の連続なのですから、その苦痛から離れるためには、どうしたらよいのかと考えたのです。そこにはたくさんの理屈があるのですが、結局は自我という尺度を持っているから苦しみに出会うのだと結論づけています。そして、諸行無常、色即是空と説いたのです。
しかし、そのような苦痛からの解放を求める境地のものに、手法としてこのように思えばいいんだと伝えたところで、その思いが湧き出す自分がいる限り、思いは湧いてくるのだからどうしょうもないのです。そこでどのように瞑想をしたところで、その結果は迷走に繋がることになるのです。それは、実態の伴わないバーチャルな体験に基づく境地を求めるものだからです。このような体験をいくら積んでも、その思考形態で生きていること自体、四苦八苦を産み出す仕組みの中にいるのですから。
そこで、どうしたらいいと思いますか?
A子:
死ぬ。
いさどん:
死ぬ?違うよ。死ぬんじゃないよ。反対だよ。
B男:
生まれなければいい。
いさどん:
そう。お釈迦さまは、生まれなければいいと示したのです。生まれなければこの苦しみを体験することもなく、結果この苦しみから解放される。お釈迦さまはネガテイブですね。(みんな笑い)
生まれてきたが、人生で出会うのは四苦八苦で苦痛の道だから、ここから逃れるためには、生まれなければいいということになります。生まれてくるということは、肉体という特定を得、自我というカルマが発生し、それにふさわしい自我の人生を生きることにより、それが次のきっかけとなり、また生まれてくる。何回も何回も生まれ変わって輪廻を繰り返すのだから、そのけじめのない輪廻に嫌気がさし、生まれないためにはどうしたらいいのか、又はなぜ生まれてくるのかを考えたのです。そうして行きついたのが、「自らに囚われ、執着する心に自我が成立することにより生まれてくる」ということ。それが人間の性(さが)なのです。
ところが面白いことに、13000年前の叡智であるカタカムナでひも解いていくと、ヒトという境地に至った存在は、完成された悟りの境地のものを指します。そこでは、「ヒトであるということ=この世界の始まりから終わりまでを悟り、統合している者=悟っている状態」と示しています。それは本来、仏教で言う、生まれてくることのないもの、もしくは生まれてきたとしても、人の性(さが)に苦しむようなものではなく、自我を超越した存在(菩薩)と示しているのです。
ところがカタカムナの後の時代、今から2500年ほど前、お釈迦様が道を示すために役割をもらって降りてきたころには、「人間は生きることにより四苦八苦するものである」というように人間性は固定されてしまい、世界は特定の王に支配され民衆には希望のない混沌とした時代だったのです。「生まれてくることがいけないんだ」と、生きること自体を否定的に捉える時代だったのです。
そこで小乗仏教で象徴されるように、現世が苦痛であることから、少しでも功徳を積んで生まれ変わり良い人生が生きられるように願うようになっていったのです。
さらに大乗仏教になると、苦痛の世界から極楽浄土を求めご利益的救済への道に変わっていったのです。そこでは本来、自我を超越する道であった探求の道が、苦痛から解放されたい願望をかなえる道に変貌し、そのことにより結果として人々はカルマにまみれていくことになったのです。
中国の天盤の巡りで示されているのは、地球上に宗教観がもたらされたのは、今から約3000年前のことなのです。そういった歴史の流れから捉えれば、そんなに古い話ではないのです。そして3000年の時を経て、天盤の巡りで示されているのは、時代は今宗教の時代を終え、新たな時代を迎えようとしているのです。その新たな時代を生きる人々は、生きることに、願望をかなえたり救済を求めるのではなく、自らが自らを正しく悟ることによって、願望(自我)に翻弄されることなく、救済される必要のない高い意識の存在(菩薩)となるのです。
そうするとこれからの時代は、宗教の時代に示されたような、「人として生まれ、人の性(さが)に翻弄され生きなければならない」というネガティブな感情からの解放ではなく、自我を理解し自我に翻弄されることなくコントロールし、その個性を有効に生かし、高い意識のもとに自らにも他者にも有益な人生を生きる人であることが望まれるのです。
3000年の宗教の時代を経て、人々が新たな時代を生きる人間性になったとき、「性」という字を「サガ」と読むか「セイ」と読むかの違いが示されてきます。そこではセイという読み方は「聖なるもの」のセイに通じることになります。そしてセイという示しは交わりの性に通じ、全ての生命の始まりのセイであり、宇宙の根源の働きに繋がるものです。そういった秘められていた仕組みが今、解き明かされ、その時代が今訪れたということになるのです。ですから、宗教の時代のお釈迦様は人々に悟りを説いたのですが、今新たな次の段階の悟りを人類は迎えようとしているのです。そのことに気づき、私たちは社会の先端を生きているのですから、そういった自覚の元に、自らと向き合って生きていきたいものです。
今日「七夜物語」の第六夜を聞いて、晃ちゃんの話がたくさん出てきましたね。晃ちゃんの精神性の成長のプロセスの一段階を見ました。晃ちゃんは、第六夜に出てくる自らの段階をみて、「自分はあそこにいたんだ」と振り返りました。そして、あそこからここへ来たんだと気づいたときに、いさどんがその後にその次の段階の話をしてくれました。そこでまだ、次の段階には至っていないけれど、以前のもっと下にいた時から今の段階にいることの意味がよく分かり、そこを目指すんだという希望が生まれた、と言っていました。
人間というものは、一人一人個性的な人間性という性を持っているのです。お釈迦様の時代は、生まれてくると四苦八苦を繰り返し生きることの結果、わかればわかるほど生きることはつらいと解釈しました。そこで、「じゃあ早く死のう」という発想になるのではなく、四苦八苦の原因を消滅させずに死んだところで、またそれが原因となって生まれてくることになり、また四苦八苦を生きることになる。ということなのだから、生きることを吟味して生まれることのないようにしましょう、という道を示したのです。この道理はそういった生に対する認識の時代にはその通りですが、それがその時代にふさわしい道理と捉えるならば、今の時代には今の時代にふさわしい道理が求められるのは当然のことです。
2012年の12月21日25800年ぶりの「銀河の冬至」を迎え、時代は闇のピークを越え、今私たちは、人間性の愚かしさのピークも観たわけです。この時代には、戦争で示されるような物理的地獄もあれば、人々の心が創り出す闇の世界もあるのです。
最近の注目すべき話題として、日本で行われる伊勢志摩サミットを機会にアメリカのオバマ大統領が70年前に原爆を投下された広島へ初めて訪れることになっているのですが、オバマ大統領は、大統領就任後に核廃絶を訴えてノーベル平和賞を受賞しました。しかし、自国の核にすら何らの対策もうたないままに、世界は核の緊張の上のパワーバランスにより、北朝鮮の核開発が進むことを誘発するような現状のままにあります。その結果、辻褄を合わせるように今回の広島訪問が実現したようにもとれます。そういった出来事も含め、人類の心の闇も極みのところへ達し、世界のリーダーや、聖職者と称される人々が現代社会の行きついた矛盾の根源であることが観えてきました。それを時代が示していると受け取れます。
そういった表面的に取り繕った見せかけの平和を唱えるのではなく、このような現状を踏まえて、ターニングポイントを超えた次の時代の聖なるものとは、どういった精神に基づく探求であるべきなのかが、これから人類が目指すべき方向性です。人間に生まれてくると、人間性という人間であることの「定め」がついてきます。人間に生まれてきたら、ほかの動物とは違って、自らを認識する、考える、願望を持つ、膨らませる、叶える、喜ぶ、ということをします。そういった願望がかなわない時には、悲観することもします。その時に我々の喜びというものは何なのかというと、今までは全部損得勘定です。この損得勘定というものは、次元によって質が全く違うのです。物理的な損得に基づく損得勘定もあれば、自らの霊的な価値が積めるか積めないかという損得勘定もあるのです。
そこが観ているところの違いで、こうちゃんはさっきの第六夜の話を聞いて、去年の9月ごろの自分に立ち返って、こういった喜びや豊かさがあるんだ、という心境になりました。そういった心境に至ったときに、人はモノやお金に縛られることから解放されます。そのような心の価値と出会った喜びや、心が成長して豊かになっていくことを通して、お釈迦様が道を示された頃の時代のようなネガティブな悟りではなく、「ヒトとしての本来の悟り」に至るのです。
それは地上を生きるものにも、天に存在するものにも共通して有効なものです。お釈迦様の時代は、「人として降りてくると四苦八苦して生きるのが大変だから生まれてくるな」というのが悟りを目指す目的の原点でした。ところがそういった苦しみの世であるにもかかわらず、後の世は、人は減るどころか大変増えて、人々は四苦八苦から逃れるどころか、欲望の感情におぼれ、かえって苦痛の種を人生にまき散らし、その結果世の中は混乱の極みに達しているのが現状です。
本来ならば、そのようなろくでもない人間は、地上の理想を目指す目的からすると不必要なものとして淘汰されるべきものです。ですから、人々が天意に沿って生きていたならば、人が生きることにより自らを磨き高め、本当に必要な魂だけで地上は安定した世界になっていくはずなのです。そして、そういった世界では本当のヒトが世界を創っていくことになります。地上で生きるにしても、「ヒトでなし」ではなくて、ヒトにふさわしい人が生きる時代がこれからの時代と考えた時、これからの人たちの損得勘定は自らを高次に導き、自らが納得し誇れる生き方をするべきです。そして天とともにクニツクリをし、地上を豊かにし、みんなが楽しみ喜べる、嬉し楽しの世を開くために生きるものであるべきです。その喜びが、自らの願いであり意志として生きるものになったときに、これこそが、新たな時代の人々(菩薩)の姿なのです。
宗教の時代の初期は、個人が個の悟りを求めて仏陀となった時代だったのです。それが優れた聖なる人の見本になりました。しかし、これからの時代は「すべての衆生に仏性あり」とお釈迦様の言葉にあるように、一人一人の精神が天意に目覚め、全ての人々が仏陀としての自覚をもって生きていく時代です。
そういった時代の幕開けを感じとったとき、そのような景色を観、そのような喜びにこうちゃんは出会ったのでしょう。こうちゃんおめでとう、ということなのです。おめで統合だね。(チ~ン♪、笑い)
丁度今、木の花の精神性を表現した発信基地としてアンテナショップの計画がありますが、このアンテナショップでは「あれ~ここはどこだろう。これは何だろう?」という不思議な雰囲気を体感できる場所を目指しましょう。そして訪れた人々が「ありがとう」と言って帰っていくときに、何か懐かしい想いを感じ、また帰宅なるところにしたいものです。そこは、本当の自分に出会え、自分の家よりも居心地がよい場所にしたいものです。そしてその場所が、物理的な場所だけではなく、心の居場所であったならば、たくさんの人がみんな帰宅なるでしょう。それは、私たちは元々そこ(心の故郷)から生まれてきて、今まで忘れていただけなのですから。そういった場所をこれから創って世の中に提供していきましょう。
こうちゃん:
3000年前からの流れ、お釈迦様の教えも金神様が言うように、今の時代になっては、人々の意識の内では逆さまになっていたということだね。
いさどん:
そうだね。「まさしくこの世は逆さまじゃ」ということ。今の人間たちは、たくさんのものや価値を所有しているでしょ。そして、本当が観えない世の中になっている。これから、それが全部ひっくり返って新しい価値観の新たな世が始まるぞということで、本当に「嬉し嬉し、楽し楽し」とみんなで共に生きていきましょう。



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 13:07:20 | 显示全部楼层
从释迦时代的开悟到新时代的觉醒

现在分享大人会议中“isadon的七夜物语”第六话。

晃酱:
在七夜物语的第六话中,谈到了许多有关我的事情,现在我反观自己,发现和那时候的自己相比改变了许多。感觉这是非常开心的事情,虽然自己还没有达到isadon所描述的境地,不过先小小得意一下啦~

读了七夜物语,大家都说的“自己是主角”,以及“每个人都从全体来考虑是非常重要的”,我也这么认为,与此同时,我发现七夜物语
是一直在灌输这些意识的。

如果能在日常中践行,认识到我是主角的同时也是整体的配角,与整体保持一致,带着这样的心去了解这个世界的话,就能感受到一步一个脚印的踏实感。这次的天线商店成功运营了,这样继续做下去,我觉得能够给来访的人提供异次元空间。(异次元空间?他们准备去宇宙旅行了吗?太空船造好了吗?呵呵)

Isadon
人之“性”,平常叫做人性,人们会问人性到底处在何种程度上。作为一个活人,我们的思考回路很复杂,有欲望,并且欲望也会膨胀。人生活的时间长了,内心会形成怪癖,如果沉浸在怪癖里面,生活会变得更复杂。

本来我们积累经验之后,应该清理掉自己身上的污垢,向更高级的意识进化的,但是处于低次元状态的人性,沾染上了灰尘之后,这些灰尘就成了到达高次元世界的障碍。然后,这些经验就成为了执着,成为人生的累赘。

现代社会,很多优秀并且地位很高的人,虽然它们说了很多漂亮的话,但是其内在根因全是为了自己。虽说他们发挥了卓越的能力,但是从最深层的性质看,对他们的性灵没有任何帮助。结果他们只是为金钱奔走,然后执着于自己的立场,最后导致世界的混乱。
当今这个世界,被认为是成功人士的统领、政治家、经济人、宗教家、教育家之中,很多人都是上诉所说的人。这些人如果不面对自己的内心,如坐针毡如履薄冰地净化自己的内心。那么虽然他们自己认为是在做善事,其实是在给这个世界添乱,成为灵性上的罪人。

现在正是迎来解放的时候,社会的阴暗面正在不断被揭露。巴拿马文书就是其中一个事例。现在地球的岩浆进入了活动期,世界的火山开始活跃。从某种意义上讲,这也象征着精神世界的火山开始喷发。这个世界的黑暗面将会更加快速的被揭露。

相对于我们这个时代,释迦那时候,精通佛法的他是如何传道的呢?全是根据自己所获得的意识来解释这个世界的。人所有的解释都是从自我的出现开始,以自我为基准调整尺度,然后认知这个世界。因此,开始的开始是从自我的出现开始的。

到底全体是什么?人类是什么?自我又是什么?人类是对这些问题放着不管会烦恼,稀里糊涂地过下去的话又会生气,妄想膨胀紧接着欲望跟着膨胀,还有如果被限制事情就做不好,人变得萎靡。如果事情做成了也会造成自信过剩,被情感所左右的复杂的存在。还
有每个个体都有各自独自的特征,在无数的存在着,像人类这样不可思议的生物还有其他的吗?

在这样的人类当中,自己又是什么?自己就仅仅存在,对这个世界进行解释。关于解释,每个人的衡量尺度不一样,对事物的观察方法也不一样。存在从客观角度进行的观察。这个角度,也只能是从自我开始。无论做什么样的事情,无法从自我以外的地方看。然后,如何捕捉自己的内心,释迦所展示的道路是否定的道路。

那条道路从生老病死开始,人生的全部就是四苦八苦。因此,他说生活在这个世界上就是痛苦。生下来是痛苦的开始,活下去是痛苦的延续,为了远离痛苦,怎么做才好呢?他这样思考。他找到了很多理由,但最终发现造成痛苦的原因是因为有自己。之后他就说诸行无常、色即是空。

然而,为了达到远离痛苦的解放境地,他发现思考的时候只有思想不断涌现的自己存在。无论自己怎么思考,结果都是走向迷失。那是没有现实陪伴的虚幻的境地。这样的体验无论积累了多少,以那样的思考形态活下去的自己,会陷入不断生产四苦八苦的圈套中。
那么,该怎么办?

A子:
死。

Isadon
死?不对哦。不是死哦。

B男:
不生就好。

Isadon
是的。释迦告诉我们不生就好。不生的话就不会体验痛苦,就会从痛苦中解放。释迦是消极的呢。(大家,笑)

生下来了,人生所面对的是四苦八苦的道路,要从这里逃脱的话,不生的话就好。生下来我们就开始造业,选择适合自己的业活下去,一轮生命结束之后以业为契机,再次出生。不知经历了多少轮回,已经对没有尽头的轮回厌倦了。为了能够不生到底该怎么办?之后就会发现:是执着的心产生了自我,并且囚禁了自我。这就是人类的性。

不过有趣的是,13000年前开悟的katakamuna人认识到:彻悟的境界的人=了悟这个世界的开始到结束,把世界统一起来的人=没有迷惘的人。这本来是佛教说的,这是超越生死的境界。

话说katakamuna之后的时代,距今2500年之前,释迦被赋予了传道的任务降临人间。那时,人活着被认为是痛苦的,世界被国王所支配,人们在没有希望的混沌的时代中生存。那也是否定自我的时代。

那时,小乘佛教认为活着是痛苦的,他们想积累功德以减少痛苦。

而大乘佛教追求超越自我以往生西方极乐净土。本来探求自我这条道路是可以解放痛苦,达成至乐的境界的,但是结果人们却沾满了业。

中国的天盘显示,地球上的宗教观始于3000年前。从历史的长流来看,并不是那么的古老的事情。然后3000年过后,天盘显示宗教即将瓦解,新的时代即将来临。接下来活着的人,不是为了追求自己的愿望,而是为了获得无上正等正觉的菩萨。
这样看来,接下来的时代,不是宗教时代提倡的“生而为人,必须被人性玩弄”的消极感情中解放,而是有效利用自己的个性,而是回归本源过一个对自己对他人有益的人生。

经历3000年的宗教时代,人们以新时代的人类之性生活的时候,“性”这个字,“saka”的读法和“sei”的不同读法的意义就能显现出来。读“sei”的时候和“神圣的东西”的“圣”的意思是一样的。它和性交的性也是一样,是所有生命的开始,连接着宇宙的根源。现在,讲解性密的时代即将来临。因此,宗教时代释迦为人讲说悟的境界,而现在人类将迎来一个新的领悟的阶段。注意到这件事的我们已经领先于社会。

今天是七夜物语的第六夜,其中有很多晃酱的成长经历。从中我们看到了晃酱的心路历程。晃酱一开始觉悟的层次比较低,后来经过一段世间的修行提高了自己的觉悟层次。当发现自己已经上升了一个阶段的时候,isadon就过来和她讲如何到达下一个阶段。虽然她还没有到达下一个阶段,但是isadon帮她看清了这个阶段的状况,并希望她能够继续精进。

每个人都持有自己的个性。释迦的时代,活下去以及不断反复的四苦八苦造成的结果,就是明白的越多就越觉得人生痛苦。那么,直接死了就好了吧?不行,如果不能消除导致四苦八苦的原因,下一世还是会带着四苦八苦活下去。这个道理符合那个时代的认识。如果在那个时代寻找符合那个时代的道理的话,那么在这个时代寻求符合这个时代的道理也是当然的。

20121221日地球迎来了25800年以来的“银河的冬至”,黑暗的高峰过去了,现在我们可以看到人类愚昧的高峰。在这个时代,有战争所造成的物理性的地狱,也有人心所造成的黑暗的世界。

那最近被关注的话题来说,以在日本举行的伊势志摩会议为契机,奥巴马首次访问了70年前美国投下原子弹的广岛。奥巴马就任后因为提倡核废弃而被授予了诺贝尔和平奖。但是,到现在不但自己国家的核问题没有给出办法,北朝鲜的核开发问题也没有处理好。结果现在,为了表面上看得过去就来广岛访问了。这些事情也表明,人心的黑暗也到达了顶点,世界的首领以及被称为圣职者的人能够看到现代社会矛盾的根源。(好像不太明白,但是我尽力了、、、)

现在我们不应该追求表面的和平,而是正视现状。人类进入下一阶段的转折点就是由物质追求转为精神探求,这应该是人类瞄准的方向。当生而为人的时候,人作为人的这个命已经定了。既然作为人,就和其他的动物不一样。认识自己、思考、持有愿望、自我膨胀、成功、喜悦等等,做这些事情。如果愿望不能达成,就会悲观。那个时候,我们所谓的喜悦是什么?到现在都是计较。这个所谓的比较,依照次元的不同,性质完全不一样。如果有基于物理得失的计较的话,那么也有自己灵性的价值是提升了或者降了的计较。
看到了物质与精神的不同的晃酱,去年9月左右回来了,“原来内心可以这么喜悦和富足啊”达到了这样的心境。拥有了这样的心境,人就从物质中解放了。这种喜悦的心情不是释迦时代所说的消极的空无的状态,而是人本来的状态。

这种状态是与万物和谐的状态。释迦时代,“人活着带着四苦八苦生存下去太痛苦了,不要活下去,这么说来引导开悟。但是后世的人不觉得这个世界痛苦,人们非但不从四苦八苦逃脱,还陷在欲望中不能自拔,不断给人生种下痛苦的种子,以致现在世界变得极度
混乱。

像这样没有用的人,从创造理想地球的目标来看的话,这些人是不需要的因该被淘汰。因此,人如果按照天的意思生存下去,磨练自己的心性,提高自己的认知,肯定能够在地球上安定的生活下去。然后世界就会变得很美好。人应该遵循天意创造国家,让地上变得富饶,让彼此欢心喜悦。当追求这份喜悦成为自己内心的动力的时候,菩萨的时代就来临了。

宗教时代的初期,是个人追求个人的开悟达到佛境的时代。这个时代发生的事仅仅只是优秀的、具有慧根的人的参考。然而,接下来的时代是每个人都觉醒的时代,是每个人都带着觉醒的心生活下去的时代。

晃酱已经感受到这个时代的来临,看到了时代的景色,并且相遇了这份喜悦。晃酱,恭喜你!

正好现在,木之花精神的传播基地“天线商店”开工了,创造“咦?这里是哪里?这是什么?”这样不可思议的体验是我们的目标。然后
来访的客人说完谢谢回去之后,会有怀念的感觉还会再来。在这里来宾可以和自己相遇,在这里的感觉比在家的感觉还要好。而且这并不是物理性质的场所,更是心灵的居所,是人们心灵的栖息地。我们本来就是从宇宙的源头而来,只是活得太久忘了故乡。让我们创造这样一个心灵的故乡吧。(感觉这个天线商店有点像家园网呀)

晃酱:
经过3000年的时光,当今的时代和释迦以及金神预测的一样,人们的意识开始反转了。

Isadon
是的呢。“诚然这个世界反转了”(应该用文言文吧,可惜我不会)。现在的人类拥有许多有价值的东西。但真正有价值的东西人们还没有看到。接下来人的意识会反转,会创造新的价值观新的世界。接下来大家都会开心快乐自由幸福地活下去。
2016年5月27日



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 14:23:43 | 显示全部楼层
祈りの言葉 2016
木の花ファミリーでは、食事の前にいつもお祈りの時間を持っています。「1ヶ月間の真学校」受講生より、このお祈りの時間にはどんな意味があるのかという質問を受けて、いさどんが改めてその意味を語りました。

 祈りの言葉 —    
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから
あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります
無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を
アーメン、合掌

いさどん:
一般的に「祈り」というのは、人間が自らの願いを叶えたいために、神仏に対して願掛けの心で想いを向けることだと解釈されるでしょう。もしくは対象なしで、ただ自らの中に巡る願望を成就しようと願うのが一般的な祈りの現状です。
それに対して、本来の祈りは想いを巡らせ、その想いの奥にある宇宙創造の物理エネルギーによってこの世界を創造すること。宇宙創造の物理性(波動)が世界を創っているのです。宇宙(生命)は循環し巡り巡って、変化・変容・変態を繰り返し、進化し続けるものなのです。それはわたしたち地球生命のあり方と同じです。それは宇宙自体が生命だからです。
生命というのは、「生きる命」と書くでしょう。「命」とは「みこと」、それは現象世界に顕れた神のことだから、生命とは生きる神ということなのです。この世界は、大本の神様の存在する陰(潜象世界)のひずみが、陽(現象世界)へ生み出されて動き出しました。それがこの世界の生命の成り立ちで、その成り立ちとなる物理性を理解した者が奏上することで、本来の祈りの意味を成し、その目的を達成することになります。たとえばカタカムナを奏上するのは、本来の祈りです。ですから、本来の祈りの姿勢としては、まず自らの意識を高め、思考を無にしてその場に臨むことが望ましいのです。
その結果として、祈る者の心が美しく磨かれていきます。その人の内なる鏡がきれいになった時に、外にある宇宙創造の仕組みが内なる鏡に映り、内なる想いと宇宙創造の想いとが共鳴し矛盾がなくなっていく。そして、その美しい想いがこの世界に実現されていく。それが祈るということなのです。
美しくなった者は、この世界、つまり神の物理性を内なる鏡に映し出し、そしてそのまま生きていくと、今度はその神の物理性が内から外に発せられて、この世界が美しくなっていく。つまり、自分の内なる鏡に映るということは、外と内が合わせ鏡になっていて共に共鳴し響き合うということなのです。

祈りの言葉を解説すると −−−−

あなたの御心のままに あなたの御心のままに あなたの御心のままに
わたしはあります
「あなた」というのは、自らを取り囲むこの世界の物理性(神)のことです。それは大宇宙の法でもあり、エネルギーと解釈してもいいし、法則と解釈してもいいし、神と解釈してもいいのです。わたしたちの外にあって全てに遍満し、宇宙全てに響き渡り、この世界を運営しているそのものなのです。その仕組みのままに「わたしはあります」ということです。この宇宙創造の仕組みのままに、神様のままにわたしはある(有・あってあるもの)、ということを宣言しています。
それと同時に、「ない(無・なきてなきもの)」ということも宣言しています。つまり、宇宙創造のままにわたしはある、ということは、宇宙創造のそのままの姿がわたしの内なる鏡に映っていて、その中にわたし自身という我はありません、ということです。つまり「あります」ということは、あなたのままにあって、わたしはありません、ということを言っているのです。ですからここでは、宇宙の本質である「あってあるもの、なきてなきもの」を表現しています。
一つのことを三回唱えるのは、「ミ」ということで、満ち満ちていることを表しています。つまり、絶対で揺るぎがありませんということです。あなたの御心のままに、宇宙創造の響きのままに、神様のままに、わたしは写し鏡としてそのままの姿であります。だからこそ、わたし自身のエゴや我というものは一切ありません。そしてそれは、わたしの中に満ち満ちて絶対です。それを三回唱え、揺るぎない意志を表しています。
三回唱えることを三度繰り返すということは、絶対の絶対の絶対の意志を表しています。「絶対」を三回繰り返して、くどく言っているのです。「ク」は「九」だから、「九」の絶対の境地に到達すれば、その次にカミ(命・食)をいただき、強い意志を持って「十(統合)」につながるのです。

あなたはわたしなのですから
わたしはあなたなのですから
「あなた」という宇宙創造のエネルギー(あなた=神)はわたしなのですから。わたしは宇宙であり、あなたなのですから、区別することはできません。なぜなら、わたし(自我)はない(無)のですから。それが、あなたはわたしなのですから、わたしはあなたなのですから、ということです。

あなたの御心に全ての人々が目覚め
平和で安穏なる幸せな世が訪れんことを願って
努めて参ります
「あなたの御心」、つまり宇宙創造のエネルギーに、全ての人間が目覚める。目覚めて、あなたの世界と人間が創る世界が一体となる。「平和で、安穏なる幸せな世」というのは、地上天国、ユートピアのことです。そして神人和合の世界のことを示しているのです。
そしてわたしは、平和で幸せな世(みろくの世)が訪れんことを願って、生きるということをいたします。努めて参ります。つまり、努力します。それがわたしの意志です。世の為人の為に生きます、という決意と行動(知意行一体)のことです。

無限なるあなたに無限なる感謝を
永遠なるあなたに永遠なる感謝を
アーメン、合掌
「無限なるあなた」とは、無限なる宇宙(神)。「永遠なるあなた」とは、永遠なる宇宙(神)。
「感謝」というのは、その目覚めに到達した自らの喜び、ありがとうございますということです。
最後の「アーメン、合掌」は、宗教などの特定した思想信条を問わないことを示しています。
無限なる感謝、無限なるありがとうございます。永遠なる感謝、永遠なるありがとうございます。有難いことに気づいたならば、有難い宇宙の神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる(有ることが難しい宇宙の神秘が現れて御座います)。有難宇御在益(ありがとうございます。)
そして、アーメン、合掌。人の歩むべき道は一つ、心は一つということ。
宇宙創造の物理性がこの世界を創り、人々がそのことに気付いて美しきものとなり、それをこの世界に表現するものとなっていく。その結果人々の境がなくなり、そして、天と地の境もなくなり一つとなって、地上に理想郷を創っていく。それが祈りの言葉に込められた意志なのです。



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 14:24:07 | 显示全部楼层
2016年祈祷语
木之花在吃饭之前一直都进行祈祷。一个月的真学校的学生们问饭前祈祷有何意义,isadon对此进行了回答。
祈祷语
遵循你的心 遵循你的心 遵循你的心 我在
遵循你的心 遵循你的心 遵循你的心 我在
遵循你的心 遵循你的心 遵循你的心 我在
因为你是我
因为我是你
因你的心里所有人都觉醒了
祈愿在和平中,安稳幸福的世界到来
竭尽全力
无限感谢无限的你
永远感谢永远的你
阿门,合掌
Isadon
一般的祈祷,是人类想实现心中的愿望,从而面对神佛表达自己内心的想法的行为。或者没有对象,仅仅在自己的心中许下想要达成的愿望。这就是一般性祈祷的现状。
与之相对的就是真正的祈祷,这种祈祷从思想的最深处出发,借助创造宇宙的物理能量,创造这个世界。宇宙创造的物理性(波动)在创造着这个世界。宇宙(生命)不断循环轮回,不停变化,不断进化。这和我们地球生命的存在道理是一样的。因为宇宙本身就是一个大的生命体。
所谓生命,就是活着的命。“命”就是“神”,是现象世界显现的神,生命就是活着的神。这个世界,神存在的阴极世界(潜象世界)的弯曲,生出了阳极世界(显像世界),并使它动起来。把思想发送给负宇宙,负宇宙按照自然法则对你的思想进行处理,然后把结果反馈给你。因此,要想达成真正的祈祷,首先要提升自己的意识频率,然后将思考转为空无,在无中观看,就是最好的办法。
真·祈祷后的结果是祈祷者的心变得更加完美了。当心灵的镜子被擦得很亮的时候,外在的世界就能够很清晰地在内心的镜子上显现,内心的想法和宇宙的想法就能够共鸣,矛盾就会消失。之后,那美好的想法就能在这个世界被实现。
内心变完美的人,将这个世界,也就是神的物理性在内心的镜子上映照出,然后这样生活下去之后,就反过来从内在讲神的物理性向外在世界发送,然后这个世界就变得美好。也就是说内心的世界和外在的世界相互共鸣影响了。
祈祷词的解说:
“你”就是围绕在自己旁边的这个世界的神。可以说成是大宇宙的法,也可以说成能量,也可以说成法则,也可以说成神。这是遍满我们周围,遍满整个宇宙的东西,是它在维持着这个世界。这就是祈祷语里说的“我在”。遵循这个世界的法则,遵循神的旨意,我在。是在说这些。
与此同时,我们还说了“无”。也就是说“遵循宇宙法则,我在”就是自己的内心没有自己,而准确反映这个世界的样子。也就是说“有”就是我的内心没有我自己,而是随着你的变化而变化。因此这里表现出了宇宙的本质。
一句话唱三遍象征圆满的意思。也就是说绝对不会动摇。遵循你的内心,遵循这个宇宙,遵循神的旨意,我的内心没有自我。我的内心充实而丰足。这样唱三遍就可以表明自己不动摇的信念。
一遍里有三句同样的话,唱三遍就是九句。这是为了表现出绝对的绝对的绝对的意志。绝对说三遍感觉冗长,冗长这个词的第一个发音和九的发音是一样的,到达9的绝对境界,之后再获得神(命·食),加上顽强的意志,就可以达到十(合一)的境界。
因为你是我
因为我是你
“你”这个创造宇宙的能量就是我。我就是宇宙,就是你,无法分别。为什么呢?因为“我”不存在,是无。这就是你是我,我是你。
因你的心里所有人都觉醒了
祈愿在和平中,安稳幸福的世界到来
竭尽全力
你的心,也就是创造宇宙的能量,依靠这能量,所有人都觉醒了。觉醒之后,宇宙与人类创造的世界就连成一体了。“在和平中,安稳和幸福的世界”就是地上天国,就是乌托邦。就是神人和合的世界。
我们祈愿和平降临,并为之努力。这是我们的意志。为了世界为了人类活下去,然后想法和行动合一(知行合一)。
无限感谢无限的你
永远感谢永远的你
无限的你是无限的宇宙(神)。永远的你,是永远的宇宙(神)。
“感谢”就是觉醒后的喜悦,对宇宙的感谢。
最后的“阿门,合掌”就是宗教特定的规范。
无限的感谢,无限的谢谢。永远感谢,永远谢谢。如果发现了神圣的东西,神圣宇宙的神秘就可以在世界上显现。
之后,阿门,合掌。人们复归大道,心连一体。
宇宙创造的物理性创造了这个世界,人发现这个的话就会把物理性创造的美持续下去。结果是人人都没有自己,天地合一,理想的世界在地上出现。这就是祈祷语所想要表现的东西。
2016年3月

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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 14:25:09 | 显示全部楼层
阿吽の世界へ ~心豊かに生きる・前編
2016年3月12日、「1ヶ月間の真学校」は無事終了しました。3月11日の「心豊かに生きる」という最後の講座の中で、受講生ひとりひとりがこの1ヶ月間を振り返る時間が持たれました。その中で、受講生のしゅうくんは以下のようにこの1ヶ月間を振り返りました。
しゅうくん
しゅうくん:
僕は1ヶ月間の真学校を受ける前はここでヘルパー滞在をしていたのですが、この1ヶ月間はそのときとは違い、常に生活を共にしている仲間との間で自分の癖がたくさん出て、こんなにも僕はまわりをひどい状況にさせるのだと自分の影響力の大きさに気付かされました。こうやって僕は不調和を起こしていくのだと知ることができました。この1ヶ月間、日記で自分のことを振り返りながら、なんとなく自分のことはわかっていましたが、その状態がそもそも囚われていたことにやっと気付いたところです。わかっていたけれど、やってこなかったことが今、わかったところです。
これから自分がどのように生きていくのかをここ数日間考えていたのですが、自分としっかりと向き合っていくのだと感じています。自分の中では気になることがたくさんあって、自分が大きなことで悩んでいるのならまだいいのですが、自分自身が嫌だからとか、そういった狭い世界観の中で僕は悩んでいるのです。だから、そこから離れて世界観を広げていくことを、これから謙虚に素直に取り組んでいきます。僕は今まで本当に傲慢だったと思っています。今は素の自分を出していることで、少し楽になっています。
いさどん:
ひとつ質問があります。これまでは自分の癖をそのまま出してきて、それはある意味、素の自分を出してきたということですよね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
そこは反省しているのですよね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
反省した結果、今話していることは、ある意味これからも素の自分を出していくという結論に至ったのですよね。
しゅうくん:
素の自分を出していく・・・それは、自分自身で素の自分を認めて、それをコントロールしていくということです。
いさどん:
もう一度言いますね。結局、しゅうくんがやってきたことは自分の癖をよく理解せず、癖のままに表現してきて、素の自分を出したことがこんなにも全体に大きな影響を与えているのだと学んだのです。その結果、結論はやはり素の自分を出していくことなのだと言っていましたね。それは矛盾だと言っているのではありません。その最初の素の自分を出したことと、後で気が付いて素の自分を出そうという結論に至ったこととでは、一体何が違うのでしょうか。
問題の元となった素の自分と、学んだ後に素の自分を出すことによって「これで行こう!」と感じている素の自分との違いは、一体何なのでしょうか?
みかちゃん:
それはこの前一緒にご飯を食べていたときに話したよね。癖のままに出す素の自分と、客観目線も入れた上で出す素の自分の違いについて混乱している人が多いから、正直を出すことがいいことなのかどうなのか。正直を出したらそれでいいのか、という話をしたね。
しゅうくん:
そうそう!でも、それをどのように説明したらいいのか・・・。
いさどん:
どちらも同じ素の自分ですからね。これはとても重要なポイントなのですが、今の世の中もある意味みんな、素の自分を出しているのです。その結果、社会は今のような状況に至り、行き詰っているのです。しかし、自分らしく正直に生きることによって、これは解決できると思うのです。ですから、今までの正直に出していたことと、その後の正直の違いをわかる必要があるのです。「このように素の自分を出していけばいいのだ!」と理解できると、次のステージへ力強く進んでいくことができます。さあ、みなさん、考えてください!
よしやん:
そのふたつは同時にいるんじゃないかな?自分の好きな自分と自分の嫌いな自分の両方が混在している。
いさどん:
混在しているのはわかりますが、自分の好きな自分というのもそれは自分基準になっている場合が多いのです。これはポイントですよ♪自分の心地良い自分を素に表現したときに、それがまわりにとって良いかどうかはわかりません。それこそが独りよがりですからね。
たえちゃん:
客観視点を持って自分を観て、まわりを把握して、自分を出していく。
いさどん:
それは最終目標ですね。自分を入れた大きな枠の中で自分を観て、全体を把握した状態で自分を表現することは最終目標です。今、ここで質問していることは、最初に素の自分を出したときに不調和をもたらしたしゅうくんがいました。その素の自分はある意味問題だったのです。しかし、そういったことも学んだ上で、最終的にしゅうくんはやはり素の自分を出していくことが大切なのだという結論に至ったのです。それは正解だと思います。以前の不調和をもたらした素の自分と「やはり素の自分を出していくべきなのだ!」というポジティブに解釈できる素の自分の違いは、一体何なのでしょうか?
たえちゃん:
最初の素の自分は感情が伴っていて、感情をコントロールしていない素の自分。
いさどん:
それは全体に何をもたらしましたか?
のぶくん:
しゅうくんの感情の痛みだと思います。
いさどん:
いや、しゅうくんはまわりに何をもたらしましたか?
のぶくん:
まわりに不調和をもたらしたことで、しゅうくんが傷ついて、そこで学んだということではないでしょうか?
いさどん:
それはしゅうくんが学んだのですか?
のぶくん:
そうです。
いさどん:
そうすると、まわりはどうだったのですか?
のぶくん:
まわりも学んで、しゅうくんも学びました。
いさどん:
ということは、しゅうくんが感情をコントロールしないで出した結果、まわりもしゅうくんも学んだとしたら、それは悪いことではありませんね?しかし、その状態だと学びは学びでも、良くない見本として、つまり教訓としての学びになりますね。その教訓を超えていくときに、やはり素の自分を出さないといけないとしゅうくんは言いましたね?僕もそうだと思うのです。そこで、振り返る前と後とでは何が違うのか?場を乱すような素の自分を出し続けることと、振り返った後の素の自分を出すこととは違いますよね?
しゅうくん:
感覚ではわかるのですが・・・
いさどん:
言葉にならないということですね。
しゅうくん:
はい。
いさどん:
あなたは以前の素の自分を出したときの体験と、その後に「やはり素の自分を出すべきだ」という体験の両方をしたのですよね。その感覚の違いを言葉にしてみたらどうですか?
しゅうくん:
以前はとても苦しかったです!まわりに自分の感情をバーッと出したときにはみんなとの距離をとても感じました。それで自分もどんどん苦しくなっていって、孤独になりたかったし、そうするとまたどんどん自分が辛くなっていくと思って、「これではまずい!」と思って切り替えたのです。
いさどん:
そのときに、まわりを混乱させようと思って、やっていたわけではありませんね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
感情のままに出したとき、何が目的だったのですか?
しゅうくん:
・・・これといった目的はなかったのですが・・・。
いさどん:
ただ言いたいことを言っただけですか?僕はあなたのしていたことを把握していますよ。
たえちゃん:
しゅうくんが感情を出してコントロールしていないときにわたしが感じたことは、「俺はこんなに一生懸命やっているのに、なんでみんなわからないんだ!」というような空気を感じました。
いさどん:
すばらしい!しゅうくんの心はそれですよ♪その背景として、しゅうくんの想いには何があるのですか?
よしやん:
自己嫌悪?
いさどん:
そうですか??
よこなおちゃん:
認めてほしい心。
いさどん:
そうですか???
たえちゃん:
「俺の言うとおりにしろよ」とか??
いさどん:
そこで、なぜみんなは言うとおりにする必要があるのですか?みんなが言うとおりにした結果から、しゅうくんは何を求めているのですか?
たえちゃん:
自分の成功??
いさどん:
ここでしゅうくんは自分の成功を望んでいますか?当事者であるしゅうくんはどうですか?少なくとも、正解はあなたの中にあるのですよ!これがあなたから出てこないとしたら、自分の感情に対してそれを認識せず、感情のままに出しているということです。しかし、その感情が湧き出てきた元にあなたの意志があるはずなのです。その意志がもう一度何だったのかを確認できるといいですね。
今すぐ出てこないようなので、僕が少し誘導しますが、しゅうくんは最初に力強く想いを出して、素の自分を出した結果、ここを混乱させたと自分で認識しているのですよね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
しかし、混乱させようと思って出しましたか?
のぶくん:
混乱させたいという気持ちもあったと思います。
いさどん:
しゅうくんに混乱させたいという気持ちがありましたか?それは彼の意志ですか?もしかしたら、自分の気持ちを重ねていませんか?
のぶくん:
もちろんそうです。自分視点でしかしゅうくんを捉えられないので、そう言っています。
いさどん:
本当はそこを卒業するといいのですよ。この場所はしゅうくんに寄り添ってみんなで考えることが大切なのです。そこを自分視点でしか捉えられないところに、のぶくんの課題があります。あなたの中には人が同じような共通点を持っていると安心する心があるのです。そこで、あなたの感情はより強く動きます。しかし、今はあなたの感情は抜きにして、しゅうくんの感情について振り返る必要があるのです。
のぶくん:
どうやって振り返るのですか?
いさどん:
そこは本人に聞くということです。自分から見て決め付けるのではなく、本人に聞くのが大切なのです。
のぶくん:
でも、本人でもわかっていない気持ちはありますよね?
いさどん:
それを誘導して紐解いていくのが人のために寄り添うということです。今この時間は、みんなでしゅうくんの気持ちに寄り添おうとしているのです。ですから、そこで自分の感情をオーバーラップさせては、真実は観えてきません。
さて、しゅうくんははじめに強い意志で素の自分を出しました。そうしたら、場が混乱しました。しゅうくんはその混乱を見て、自分が素を出すとまわりを混乱させるのだと気付き、それでは自分に対する印象がよくなかったので自分に対して落ち込んだのです。そのしゅうくんがはじめに自分の意向をよく考えないでそのままストレートに出した心の元は、この場に混乱をもたらそうと思ってやったかどうか?それはどういう心でやったのでしょうか?本当は本人に聞いているのですが、本人がその答えを出せないので、みんなで探っていきましょう。
りょうこちゃん:
みんなとつながりたいから。
いさどん:
しゅうくんはみんなとつながりたいのですよね?
しゅうくん:
はい。
いさどん:
つながりたい目的は何ですか?
しゅうくん:
より良い世界を創りたい。
いさどん:
そうです!しゅうくんはより良い場を創りたかったのです。しゅうくんはこの場がまとまっていないと彼流に感じたので、この場を良い場所にして、みんなとつながっていきたいと思ったのです。そしてそれを実行したのです。それは悪いことですか?
しゅうくん:
悪くはないです。
いさどん:
しかし、悪い印象しか残っていませんね?
しゅうくん:
はい。まわりから、僕がいらいらしているとか怒っているというフィードバックをもらったので。
いさどん:
しゅうくんが全体に投げかけた意向は、善意ですよね。そのことについてみんながクレームを言ったのは、悪意ですか?
しゅうくん:
悪意ではなかったです。
いさどん:
しゅうくんは全体を良くするために投げかけたのですが、そのことによってこの場が乱れたので、みんなもこの場を良くするために自分の想いを出したのですよね?ここで少し僕がファシリテートしますが、しゅうくんも善意で出した。みんなもそのことによって善意で出した。しかし、当初ここには何が起きたのですか?不調和が起きましたね。みんなは善意で出しているのに、不調和が起きたのです。ということは、ここで何を観るべきなのでしょうか?何を観たら不調和ではない世界が観えてくるのでしょうか?
これはテストを受けているようですね(みんな、笑)。
かずえちゃん:
彼が出した奥の客観背後を観る。
いさどん:
ハッハッハ。それはまたハイレベルなことを言いましたね(笑)。
かずえちゃん:
その奥にある真意を観たいと今思いました。
いさどん:
そうすると、その奥にあるしゅうくんの真意、みんなの真意を観たら、何が観えてきますか?
たえちゃん:
みんなと調和したい心。
いさどん:
そうです!そこにはみんなと調和したい善意の心しかありませんよね。そこだけを観ていけば、いつでも善意の場ができるのです。しかし、その奥にある善意を観るに至らないと、善意の場にならないし、調和にならないのだと僕は思うのです。
さて、一番重要なところへ来ましたね!しゅうくんが感情的だったことを何気なく振り返ったことから、今わたしたちはとても大切なところへ来ています。少なくとも、しゅうくんが出した不調和は彼の善意から出たこと、さらにその不調和が起きたことに対してみんなはそれを改善しようとして善意から投げかけたのです。しかし、結果としては不調和の場ができました。そこで、みんなの元の心を観たら、すべて善意でした。善意だけだったら、問題はないはずですよね?
よしやん:
その善意を押し付けがましく感じる?善意だけど、悪意の善意?ちゃうなあ(笑)。
いさどん:
えっ!悪意の善意があるのですか??
よしやん:
善意でいても相手がうっとくるということは、善意の押し付け的な感情を感じて、こちらも感情が出てしまう。
いさどん:
それは受ける側の理論ですね。被害的に受けていると、「あなたの善意は悪意が混じっている!」という話になってしまうのです。そうではなく、一番元の心が善意であるということは、善意でしかないのです。しかし、なぜそこで不調和が生まれるのか、考えてみましょう。
トオマス:
僕に思い浮かんだイメージを伝えますね。ここの場のように僕たちが輪になっているとします。それで僕たちはみんな、織物をつくるための糸を1本ずつ持っているとします。僕たちはそれぞれ意図を持っています。しかし、僕たちがその意図を解釈するときには、僕たちはその場に感情をもたらします。そして他の人もみんな互いの意図を解釈し始めます。だから、「これはそういう意図ではなかったから、変えてみよう」ということになるのです。そこで僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなって、確固たる意図を持ったときに初めて、それはその場に反映され始めるのです。だから、僕たちが自分自身の中でゆるぎないものとなると、僕たちは柱になるのです。僕たちは他者にとっての柱にもなれるのです。僕たちが揺れ動くことがなければ、僕たちは状況を変える必要はありません。僕たちは自分たちの意図に対してただ確固たる必要があるだけです。そして、僕たちはありのままの姿で紡がれた調和をその場に観ることができるのです。
いさどん:
トオマスは最終結論を言ってくれました(笑)!今、トオマスは最終結論の十のところの話をしてくれたのですが、どうもこの場はまだ二か三にいて、これからその先に行くところです(笑)。大分間が抜けていますね。これからそこを埋める必要があります。
たえちゃん:
しゅうくんが感情とともに、善意で素の自分を出したときに、みんながそれをどのように感じるのかをしゅうくんは考えていなかった。
いさどん:
それを解説すると、しゅうくんの最初の素の心はこの場を良くしたいという心で出したのですが、その強い想いはみんなのことを考えないで、しゅうくんの自分の想いだけを出したのです。しかしそこで考えなければいけないことは、彼は善意でこの場のためにやっていたということです。そのときに、善意であっても、この場に不調和の種が蒔かれたということです。
かずえちゃん:
それはまわりへの配慮がなかったということですか?
いさどん:
そうとも言えますし、逆に捉えると、まわりに配慮がなかったということはしゅうくんの姿勢はどうだったということですか?
たえちゃん:
自分よがりだった。
いさどん:
そうですね。
トオマス:
僕のしゅうくんとの体験をシェアすると、僕はしゅうくんの誠実さを感じてきました。僕たちがお誕生日会や修了パーティの練習をしているときや部屋にいるとき、またお風呂にいるときでも、しゅうくんは本当に何かポジティブなことをシェアしたいのだと感じていました。同時に、しゅうくんから不安定さも感じています。だから、しゅうくんは外に気持ちを出しても、それがどのように受け取られるのかわからず、みんながそれをどのように思うのかを知る前に修正してしまうようなところがあるのです。
それから、僕がただ「ありがとう!」と感じているときでも、しゅうくんは僕がそれをポジティブに感じていることを知らなかったこともあります。僕たちは同じ言語を話しませんが、僕は「それはいいね!」と伝えたいだけなのです。たとえばお風呂場での出来事でも、「僕はそれを知らなかったから、教えてくれてありがとう!」と伝えたかっただけなのです。しかし、しゅうくんはそのとき僕に対して感情的だったことを感じました。もしくは、しゅうくんはしゅうくん自身に対して動揺していたのかもしれません。だから、しゅうくんの最初の意図は人の役に立つものであったのに、そのように事は成らなかったということです。しかし、しゅうくんにはポジティブな意図があったことを僕はわかっていたので、僕たちが話し合えば、僕にはしゅうくんの意図していたことがわかるのです。そのようにして、僕たちは一緒にギャップを埋めることができました。
いさどん:
トオマスは大分上から降りてきて、僕たちがわかる言語のレベルになってきましたね(みんな、爆笑)。
トオマス:
はい!今は五まで来ましたか(笑)?
いさどん:
まだ大分間が空いていますから、このプログラムの時間が終わるまでにそれを埋める作業をしたいと思っています。もう一度話を整理すると、しゅうくんはこの場を良くしたいという強い意気込みで、正直な自分を出しました。その元の心は善意です。しかし、まわりの人たちは彼が独りよがりの方針を出したことによって、それを受け取れないがためにここに混乱が起きたのです。それに対してまわりの人たちは、その混乱を修正し全体の場を良くするために、善意でしゅうくんに投げかけたのです。しかし、そのときにまわりの人たちはしゅうくんを問題児として受け取っていたのかもしれませんね。問題児だと感じていたからこそ、しゅうくんも含めてこの場を健全にするために投げかけたのかもしれません。
そして今トオマスが、しゅうくんは誠実な人で、彼は善意のもとにいることをシェアしてくれました。しかし、実際にはここに混乱が起きたのです。だからその混乱を観て、しゅうくんは自分の起こしたこととして振り返って落ち込んでいたのです。それから事がいろいろと成っていった結果、彼はそれを学習し、「やはり素の正直な自分を出すべきだ!」という結論に至ったのです。
全体に混乱をもたらした最初の素の自分も善意であり、後からそれを学び修正して「やはり素の自分を出すべきだ!」というしゅうくんの結論も善意なのです。この違いを埋めていくと、この階段がすべて埋まると思うのですが、いかがでしょうか?

後編に続く~



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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 14:25:58 | 显示全部楼层
阿哞的世界—内心充实地活着·前篇
2016312日,一个月的真学校顺利完结。在311日“内心充实的活着”讲座的最后,每个学生都回顾了这一个月的所学所得。其中,周说了如下心得。
周:
我在听课之前是这里的体验客人,虽然事先和大家共同生活了一段时间,但这一个月和之前的生活不一样。一直和大家一起生活,我的许多怪癖显露出来,给周围的人带来了很多不好的影响,现在我终于发觉了坏习惯的影响力,也知道这些坏影响不是别人,而是自己造成的。这一个月我不断反观自己,终于发现是我自己囚禁了我自己。之前很多不如意的事情,终于知道原因了。
这几天我在想接下来该怎么生活呢,静下来好好询问内心之后,好像知道该怎么做了。在我的内心有很多烦恼的事情,如果自己是为了大事烦恼的话,那还好,但是我讨厌自己,我为生活在狭小世界观中的自己而烦恼。因此,接下来我要虚心学习,不断扩大自己的世界观。我觉得我以前真的是很傲慢。现在心灵花园稍微纯净一点了,变得稍微快乐一些了。
Isadon
我有个问题。不断曝光自己的毛病,从某种意义上说,也是在表现真实的自己。
周:
是的。
Isadon
那是在反省呢。
周:
是的。
Isadon
反省的结果,现在我们所说的,从某种意义上说,能得出接下来也继续表现真实的自己的结论呢。
周:
表现真实的自己···那是,自己认同真实的自己,然后加以控制。
Isadon
我再说一次。最终,周还是没能很好的觉察自己的毛病,还是让毛病继续下去,只学到了真实的自己能够给全体带来很大的影响。结果是只得出了要让自己保持真实这样的结论。这并不矛盾。表现最初真实的自己和表现自己所认为的真实的自己有什么不一样呢?
真正的真实的自己,和学习到的对真实自己的印象到底有何不同?
美香:
这和之前咱们吃饭时谈到的问题一样呢。不断放任自己的毛病表现出的真实自己和客观地看待世界后表现出的真实自己的不同有很多人不知道呢。换种说法,就像诚实的表达自己和以人们认为的诚实表达自己。
周:
是是!但是该如何表达···
Isadon
两个都是真实的自己呢。这是十分关键的一个点,在现在这个世界,某种意义上讲大家也在表现真实的自己呢。结果,社会走到了现在这个状态,走进死胡同了呢。但是,如果人要是真正想认真地活下去的话,这个问题就能够解决。因此,明白两种诚实的不同是十分必要的。理解了“像这样子表现出真实的自己吧!”的话,会极大的帮助自己到达下一个阶段。来,大家,好好想一想吧!
吉:
他们不是同时在一起吗?喜欢的自己和讨厌的自己两方混在一起。
Isadon
是混在一起,不过喜欢的自己是以自己为基准衡量的,不是客观的。这是关键点哟~当表现出了自认为好的自己时,这对于周围人来说,并不知道你所表现的自己是好还是坏。这才是关键。
纱:
客观的观察自己,对周围警觉,然后表达自己。
Isadon
这是最终目标。在自己所创造的局限中看自己,之后发展到从整体的角度看自己是最终目标。现在出现的问题是,周是表现出了真实的自己,但是和周围还是不和谐。那个真实的自己某种意义上说就是问题。但是,学完之前学的东西后,最终周得出了表现真实的自己是非常重要的这个结论。这是正确的。但是真实的自己和“果然应该表现出真实的自己”的积极性的解释中的真实自己,到底是什么?
纱:
最初真实的自己伴随着感情,是没有控制感情的自己。
Isadon
那给全体带来了什么?
信:
我想是周伤痕累累的感情。
Isadon
不,我是说给周的周围带来了什么?
信:
带来了不和谐,周受到伤害了,然后从中学习了不是吗?
Isadon
那是周学习到的东西吗?
信:
是的。
Isadon
那么,周围的人怎么样了?
信:
周围的人也学习了,周也是。
Isadon:
周没有控制感情而做出了不好的事情,之后周和周围的人都从中学到了东西,这不是坏事呢。但是,在那样的状态下学是学了,但只能作为反面教材,也就是作为教训而吸取呢。吸取那份教训之后,周就说果然必须要表现出真实的自己吧?我也这么认为。不过,反省前和反省后有什么不同?让给周围带来不好影响的真实的自己继续下去和表现反省后的真实自己不一样吧?
:
感觉上知道了,但···
Isadon
语言上不好说呢。
周:
是的。
Isadon
你有之前本来的自己出现时的体验和之后的“果然应该表现出真实的自己”两种体验呢。把这两种感觉的不同试着用语言表达看看?
周:
以前很痛苦!当把自己的情绪发泄给周围时,能够感觉到和周围人的距离。然后就越来越觉得自己很痛苦,很孤独,之后就越来越觉得自己很艰辛,然后就想:这太糟糕了!
Isadon
那时,虽然想给周围带来混乱,但并没有做呢。
信:
是的。
Isadon
任凭感情从心中涌出之时,怀带着目的吗?
信:
···没有呢···
Isadon
只是说了想说的话是吧?我完全理解你呢。
纱:
当周没有控制感情表达自己的时候,我是这种感觉:我明明已经尽力做了,为什么大家都不理解我呢?
Isadon
厉害!周当时的内心就是这样,那么周当时内心里有什么?
吉:
自我厌恶?
Isadon
是吗?
横尚:
想被认可的心。
Isadon:
是吗?
纱:
“照我说的做”之类的?
Isadon
那么,为什么一定要按照大家说的做呢?从按照大家说的去做的结果看来,周在渴求什么?
纱:
自己的成功?
Isadon
周渴望自己的成功吗?作为当事人的周怎么想?答案在你心中哟!你没有觉察自己的感情,而是任凭感情从你心中流出。但是,在感情涌出的根源处你应该有意识存在,而不是完全被情感所操控。那意识到底是什么?再确认一下比较好。
因为现在你还说不出来,我就稍微做一下诱导。周一开始表现出了强烈的情感、真实的自己,结果给这里造成了混乱,你现在能认识到这一点吗?
周:
是的。
Isadon
但是,你想过要造成这样的混乱吗?
信:
我觉得他想过。
Isadon
周想过吗?这是他的意志吗?还是说,你以自己的情感想当然的认为?
信:
当然。我只能以自己的角度想。
Isadon
那还好,不然你可以从这里毕业了。刚才信说只能从自己的角度观察,这个问题有待争议。在你们之中,有些人为了想获得安全感而让自己和别人保持相同的观点。在这个过程中你们带着很强的情感,是不理性的。但是,现在必须要把那份情感丢弃,以理性的思维帮助周反思。
:
怎么反思呢?
Isadon:
问他本人。并不是从自己的立场出发解决,而是问他本人。
信:
但是,即使是本人也未必知道自己的感情呢。
Isadon
所以就需要诱导呀。现在大家开始尝试感受周的内心吧。如果能够超越自己的感情,就能够看到真相。
现在我们重新再来。周之前带着强烈的意志表现出了真实的自己。之后,场面就混乱了。周看到那份混乱,发现了自己真实的表现给周围带了不好的影响,然后就觉得自己很不好,陷入了失落。周是第一次没有经过理智而任由感情喷发出来,造成了场面的混乱。在他内心深处,他是真的想怎么做吗?他是以什么样的心情来做的?本来是应该问本人的,但本人回答不上来,大家好好探索探索。
良子:
他想得到大家的认同。
Isadon
周想得到大家的认同呢。
周:
是的。
Isadon
想得到认同的目的是?
周:
想创造一个更好的世界。
Isadon
是的!周想创造一个更好的世界。想和大家融为一体。这是不好的事情吗?
周:
不是。
Isadon
但是,却给大家留下了坏印象。
周:
是的。周围的人说我发牢骚,还发怒。
Isadon
周给全体带来的是他认为善意的东西。但是大家却提出抗议,这样做是出于恶意吗?
周:
不是。
Isadon
周是为了全体的好而做出了自己认为对的事情,结果使场面混乱了,大家为了使场面得到控制也做了自己认为对的事。在这里我要说一下,周也是出于善意的。大家也是出于善意。但是,同样是出于善意,却出现了不和谐的场面。这时我们应该看什么?看什么才能看到
一个和谐的世界?
这好像是在考试呢(大家,笑)
惠:
看现象背后的客观原因。
Isadon
哈哈哈,说了跟没说一样呀(笑)
惠:
我现在想知道其背后的真意。
Isadon
那么,看了周的真意和大家的真意之后,能看到什么?
纱:
大家相和谐生活下去的心。
Isadon
对头!那里只有想和大家和谐生活下去的善意的心。如果只从这一点看的话,无论什么时候我们都能够创造善意的场面。但是,如果看不到内心深处的善意,我觉得大家就不能和谐地生活下去。
好了,最重要的时刻到来了!周制造出的不和谐的场面来自于他的善意,之后大家为了改善这不和谐的场面也从善意出发做了自己认为对的事情。但是结果,不和谐产生了。从大家内心深处来看,都是出自于善意。既然都只是善意,应该不会出现问题呢?
吉:
怎么感觉是有硬性要求的善意?虽说是善意,难道是充满恶意的善意?不对呀(笑)
Isadon
咦?有恶意的善意吗?
吉:
虽说是善意,但是周带着强烈的感情,有点善意强加的感觉,我们这边也是。
Isadon
那是偏论。善意中包含着恶意,并不是这样。最初只有善意的心。但是,为什么会出现不和谐呢?考虑看看。
奥玛:
我把我想到的说给你们听。就像现在的场地一样我们形成了一个圈。我们为了织布人手拿了一团棉线。我们每个人都有各自的意图。但是,当我们解释自己的意图的时候,把自己的情感一同带出了。然后其他人也开始相互解释自己的意图。在这个过程中,会出现“这个意图不好的话,就改变看看吧”的情况。后来经过很多次的改变,意图逐渐确定时,那么这些想法就在我们心中扎下了根,逐渐变得不可动摇,然后开始在周围反映出来。因此,当我们的内心不动摇的时候,我们就是这里的顶梁柱。对他人来说也会是顶梁柱。我们只要不动摇的话,我们就没必要改变自身。我们仅仅只要明确自己的意图就行。然后我们就可以以这样的姿态制造和谐。
Isadon
奥玛说出了最终结论(笑)!
纱:
周带着情感,善意的表现真实自己的时候,并没有考虑到周围人的看法。
Isadon
周最初是想为这个会场好,但是感情太强烈了没有考虑到大家就做出了自己想做的事情。但是这时必须考虑的是他是带着善意的,而不是恶意。不过虽然是善意,却成了这个导致会场不和谐的种子。
静:
也就是没考虑到周围人的感受?
Isadon
这么说也对,不过反过来看,没有考虑到周围的周,是什么样的人呢?
纱:
自我感觉良好的人。
Isadon
是的。
奥玛:
我和周相互分享了自己的体验之后,我能感觉到周的诚实。我们在练习生日派对和修了派对的节目时,在房间里谈话时,一起洗澡时,我感觉到周十分想分享积极正面的事情。与此同时,我也感觉到了周的不安。因此当周表达自己的时候,我不知道别人会怎么看他。
之后当我向他表达感谢的时候,周有时候也意识不到。我们之间语言不通,但我只想表达谢谢。比如在浴室发生的事情,“我不知道这个怎么用,你教我了谢谢!”只是想传达这个。但是那时候我感觉到周对我表现出了过分的感情。(好基友一辈子)周一开始是想帮助人的,但是感情太过强烈,反而没能帮上忙。但是我知道周带着积极的想法,如果我们能够同频的话,我就能准确明白周的想法。那样的话我们就可以埋葬我们之间的隔阂。
Isadon
奥玛说的非常棒,已经达到我们能够理解的水平了了(大家,爆笑)
奥玛:
是的,现在已经到五了吗(笑)?
Isadon
还有很多时间,在结束之前我们先把这件事结束吧。我再整理一下。周带着强烈的情感想把这里变得更好,表达出了真实的自己。最初他的心是善意的。然而,周围的人却认为他太自以为是,不能接受他的做法,因此混乱出现了。后来大家为了将会场的气氛重新变融洽,也发自善意说了周。但是,那个时候大家可能说过了,把他当成了一个问题儿看待。正是因为周感觉到自己被当做问题儿对待,可能才觉得周围人是问题儿,为了维持现场秩序就说了大家。
后来刚才奥玛告诉我们周是诚实的人,他是从善意出发的。但是,事实是这里出现了混乱。因此看到那混乱之后,周觉得是自己引起的就冷静下来反省。后来经过反省他学到了“果然应该表现真实的自己”的结论。
给全体带来混乱的最初的真实的自己是善意,周从中学习,修正自己之后得出的“果然应该表现真实的自己”也是善意。消除这两个善意的差别,这个阶段就结束了,如何?
后篇继续~

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 楼主| 娇娥 发表于 2017-5-10 14:26:37 | 显示全部楼层
真実を発信していく
ここ最近養蜂作業が忙しく、生活のリズムが狂っていた。そして今日、養蜂の作業が一段落したので、狂ったリズムを整えるために休んでいたら、夢を見ているとも起きているとも言えないような状態の中で、ある意識が浮かんできた。それは「トキが来た」ということだ。
今、インターネット上に、真実を歪めて木の花ファミリーをバッシングしているサイトが横行している。ものすごいエネルギーを使ってここを貶め、封印しようとする力が働いていることに対して、そのエネルギーを逆に、真実を発信していくためのエネルギーに転化できると気付いた。
多くの人が興味を持っているからこそ、ああいったサイトを見る。そこで、彼らが見ているバッシングサイトの情報に対して、その情報の出所の元にある心がどのようなものであり、そこに表現されている現場の実態は実際にはどうだったのかということを提示してあげれば、彼らはバッシングサイトを見ていたのと同じエネルギーで、真実は何なのかということを感じ取ることになる。それは、バッシングサイトが描いて訴えようとしているイメージと実際は違うということや、それを見る自分自身の視点の偏りに気付くチャンスになる。
バッシングが始まって3年目となり、ある程度それが社会に浸透した今だからこそ、トキが来て、そこに表現されたエネルギーは一気に逆転する。うたた寝から目を覚ました僕は、養蜂の一段落と、バッシングが逆転へ転じるトキが同じタイミングで来たことを感じた。
そのタイミングを感じた時に、台所に8個のキジの卵が置いてあるのを見た。それは日中に草刈りをしていた畑隊が見つけて持ち帰って来たもので、ステンレスのボールに入れて流し台の上に置いてあった。巣の周りの草を刈るだけでも、人間の匂いが付いて親鳥は寄り付かなくなる。そこで畑隊が持ち帰って来たのだが、僕はそれを見た瞬間に、そこから生気が湧き出ているのを感じた。あんなにも生きようとするエネルギーがあふれ出しているものを、ステンレスのボールに入れて置いておくということがあるだろうか。
懐中電灯で卵を透かして見ると、幸いなことにまだ分裂を始めていなかった。今から温めてやればまだ間に合う。これは食べるものではなく、命として孵してやらなければいけないものだ。そういうことを感じられることが大切なのだ。
かつて僕はまりちゃんとコンビを組み、合鴨の卵を孵してきた。温度は37.8℃、湿度は50~70%で、1日に5~6回転卵をする。孵化させるのにどれほどきめ細やかな配慮が必要か。それは真剣に向き合わなければできない。
しかしそれは、神経をすり減らすようなこととは違う。コンピューターがやるのではなく人間がやるのだから、命が育っていくのを感じながら、楽しんで、気楽にできるものだ。自然界の親鳥も、トイレに行ったりごはんを食べたりしながら、それでもきちんと命と対話しているから卵を孵化させる。そういうファジーな能力が、人間にはある。感じ取る能力があるのだ。
まりちゃんと卵を孵してきたように、かつて僕はやすえどんとコンビを組んで糀を仕込み、ひろみちゃんとコンビを組んで木の花菌を作り、かずこちゃんと組んで雛鳥を育てた。そうやって人間の持つ能力を研ぎ澄ませてきた歴史が、木の花にはある。それはとても神聖なことであり、そういう場を汚してはならない。
今、僕ときょうこちゃんは、新たなプロジェクトに取り組んでいる。それは、新しいきょうこちゃんをつくること。僕は彼女にこう伝えた。「それはきょうこを壊すこと。自分を壊すことだぞ」と。自分を壊さなければ、奥に眠っているものは出てこない。
これまでのきょうこちゃんは自分のことばかり考えて生きてきて、その姿勢の結果ガンになった。彼女は命がかかっている。それは自分がつくってきたことであり、それをつくった自分自身を壊さなければ、命は取り戻せない。とても真剣なことだが、人間はその段階へ行く時が来たのだと僕は感じている。
このプロジェクトが始まって、最初は僕がきょうこちゃんにヒーリングをしていた。きょうこちゃんは毎日まじめにやって来るが、僕はだんだんきょうこちゃんにヒーリングをする気が起きなくなった。そうすると、逆にきょうこちゃんに、僕に対して何かしたいという気持ちが湧いてきた。きょうこちゃんが僕に癒しを提供することで、きょうこちゃんが癒されている。
僕は最初自分がやってあげるつもりでいたのにだんだんやる気が起きなくなって、この意識の変化は何だろうと思っていたが、そこで答えが出た。そうだ、人のためになるという心をきょうこちゃんに目覚めさせるということだ、と。自分のことばかり考えてガンを作った者が、人のために生きたら、ガンは消える。(「癌」は、品物を山のように抱えてなる欲深な病気と書く。)
何日か続けているうちに、お腹にあったしこりがやわらかくなって、確認できなくなってきた。病院での検査結果がどう出るかはわからないが、今、きょうこちゃんのお腹の中から、悪いものを発している波動を感じられなくなってきた。
僕がきょうこちゃんにやっていることは、単なる病気治しではない。人間の能力を引き出す実践をやっている。それはキジを孵すことと同じだ。
我々がやっていることは、一人ひとりの人格を探求することも、個人の道を見極めることであると同時に、21世紀の人類の歩みにとって重要なことだと言える。それは、一人ひとりの意識が現状の地球の混乱の原因になっていることに気付き、その責任をとるという意味で、個人は自らが地球世界にもたらしている矛盾を一人分解消するべきだ。それを、国や地域のリーダーたちの責任にしている場合ではない。なぜなら、そういった立場の人々を選んでいるのも、自分自身なのだから。そのように、一人ひとりがこの世界に対する自覚を持つことが、次なる新たな時代へのステップとなる。
これからは、我々人間の奥にあってまだ我々自身も気付いていない、人間がこの世界に生み出された目的に目覚めることにより、これまで眠っていた能力が開花していく。それは今、田畑で行われている栽培法の変化(詳しくは木の花ファミリー通信「農業革命」をご覧ください)や、新たなプロジェクトが次々と立ち上がっていることともつながっている。同時に、世の中の人々がここの真実をわからずにいる不幸を解き明かすトキが来ている。この存在を理解できないことは21世紀の損失である。これは本当に21世紀の人類が進むべき方向性であり、時代が生み出した宝だ。
我々が生きていることに対して、自らが理解をしていることはごく僅かであり、生きているということに対し我々は無力である。真実は、存在するとは与えられていることであり、生かされていることである。現代人は、自らの思考の延長線上に生きようとしているがために、この世界から与えられていることを受け取る能力(現代人は脳の10%しか使っておらず、残りの90%は休眠状態にある)を退化させている。その現実を理解し、その状態に自らを貶めている自身の中にある性質と向き合うことにより、眠っている能力を使いだすことができる。
ところが、文明を発展させていく過程で人間の自我が優先するようになり、人々は自らの自我が生み出す欲求に翻弄され、その欲求を満たすことのみに奔走してきた。本来人間の能力とははかりしれないものであるが、自我の欲求を満たすことに囚われているがゆえに、自我により認識されている能力の奥にある、潜在的な力を使うということを怠っている状態だ。それは、今自分が起動させている以上のものはないと思っているからだとも言える。だから自らの枠の中でしかものを考えようとしない。
その場合、自らの枠を壊す作業をしなければいけないが、囚われている人間はその勇気が持てるかどうかだ。囚われという枠を壊せば、その奥にあるものが出てくる。それは思考回路だけでなく、その奥に秘められた潜在能力が出てくる。木の花の中にも、一生懸命やっていてもなかなか流れを読み切ることができない者たちがいる。そこで彼らは僕に「どうしたらいいでしょう」と聞いてくるのだが、そんなことを人に聞いてどうするのか。思い切り悩んで、自らの内にあるクセにまみれた思考回路を壊すところまでいかなければ、その奥にある潜在能力を引き出すことはできない。
一生懸命仕事をすれば、物理的には役に立つ。しかし役には立っても価値は付かない。価値がついて初めて、人は本当に役に立つことができる。それは、今までにないものになるということだ。
これまでは、一生懸命だけでもよかった。しかし、一生懸命に見当違いのエネルギーを使っているようでは、この世界に害がまき散らされることになる。それを、今の時代の現状が表している。そこでこれからは、眠っているものを掘り起こすということをやっていく。我々は起きていてこの世界を認識していると思っているが、その世界で目覚めるということは、実はこの世界が眠っているということだ。その眠っているものを起こすには、自らを壊す必要がある。
これから、人間がこの世界に存在する本当の意味を開花させる時が来る。ここは、それが世の中に先駆けてできる所だ。しかし毎日既製品のような仕事をこなしているだけでは、新しい能力は出てこない。物理的に仕事をこなせているから自分はできていると思っていると、自分を足りない者だと自覚して真剣に向き合い、その奥にあるものを引き出そうとする姿勢にはならない。
日頃はボケていても、ポイントのところはピッと感じられる人間になることが大事だ。ボケているから、キジの卵をステンレスのボールへ入れ、平気で台所に置いておいたりする。それではまるで食材だ。しかし卵からは「食材じゃないぞ!」という生気があふれていた。原始的な人々や食べることを優先する人間はためらうことなく食べるかもしれないが、意識レベルが高くなった人間は、やっていいことと悪いことを、そのものごとに出会った時に瞬時に感じ取れるものだ。この卵は食べて命を終わらせるものではなく、循環を止めるものでもない。自然から奪ったものだから、命として孵るかどうかはわからないが、少なくともその挑戦をしてあげることは、卵にとっても本望だろうと思う。食べられるために野に生みつけられていたわけではないのだ。
そういったことが、直観で感受できる者になる。それは本来当たり前のことで、人間が自然と共にあった時代にはあり続けたものだ。現代人はそれを忘れている。
そして今、我々に求められているのは、その次の段階だ。発信するのは、木の花というのはいったい何もので、何を目指しているのか。
今の世の中の多くの人たちは、それが理解できない。自らの枠の中では解釈できないものを、自らの枠の中でイメージし、創り上げ、それをバッシングサイトで表現している。しかしそれはここの実態ではなく、その人自身の中にある世界だ。
何か現象に出会うということは、自分自身を知ることであり、自分との出会いだということが、人間はわかっていない。出会うとは、自分という現実に出会うこと。自分がない人は自由自在に変化していく。しかしいつまでも古い自分がとれないと、痛い目をして学ぶことになる。ひどいのは、痛い目をしてもわからずに同じことを繰り返す。それが今、人類に問われている。
今、僕の中にはとても重要なことが湧き出してきている。
近ごろ、皆神山が僕の中に浮かんでくる。今年3月、皆神山で特別な生き方を受託していることを再確認したが、その後しばらく日常生活をやっていた。しかし、その生き方をここに表現する役割がある。
これは、人類に目覚めを与える話だ。ネット上の批判のような汚れをかぶっても、この歩みは時代の意志を表した歩みであるがゆえに、止まることはない。今の時代は、自らを振り返らない者たちがその実態をわからないがために、それに立ち向かえば火の粉をかぶることもあるだろう。
しかし今、トキが来ていることは確かだ。この一連のバッシングはなぜ起きたのか。それが天の采配であるならば、それは一体全体何であったのかを全て解き明かし、世に示す時が来ている。それはバッシングをする人々に向けたものではなく、世の中全体に向けるものだ。
これからの時代に、我々は何をしようとしているのか。その価値は未来に行ってみて観えることであり、約束されてから行くようなことでは、自我の納得の上にいるに過ぎない。人間たちはもう、そういうことをやめなければいけないということを表現するために、我々はこの生き方をしているのだから、これは前人未到の世界だ。人間はいよいよその領域に入ったのだということを、この場全体で表していく。
もう、物理的五感を優先する人間を超えなければならない。時代はそれを求めている。これまで以上の段階へ進もうとしたときに、自分を壊せない人間はダメだ。自分の枠を超えられない人間はダメだ。自らの能力を超えたところを開発して、そこを観ていくのだから。それは見せかけをきれいに整えるのではなく、囚われの枠を壊して湧いてきたものを表現するということだ。
そういったことの価値を考えない者にとっては、ここは厳しい場にも見えるだろう。しかしある景色が観えた者にとっては、インチキな場所ではいけない。表面だけを繕っているような場は、嘘だろう。この時代のこの世の中に、なぜここがあるのか、ということを、世の人々に伝えていく。
現代の人々に伝えたいのは、なぜこれがわからないのか、ということ。なぜその視点に立てないのか。これは珍しい話ではなく、当たり前に道理を追っていけばわかる話なのに、それがわからないのはあまりにも思考が狭い範囲に特定されてしまっているからだ。しかし21世紀の宇宙時代を迎える人類は、それではダメなのだ。時代はすでに、この思考回路を元にして創られる時代に入っているのだから。
「現代の人々に対して」と言うと焦点がボケてしまうから、あえてこう言おう。今、あなたに問うている。そこに目覚めることが、次の時代を生きる資格なのだ。
世界のリーダーたちがいくらサミットを開催しても、それは結局は個人の損得勘定の思考回路が国家レベルになっただけで、エネルギーが大きいか小さいかの違いがあるだけで同じパターンをやっている。今の経済にしても環境問題にしてもテロ対策にしても対処療法的なことしか考えられていないのは、思考がとても狭い範囲に限定された損得勘定の上にしか回っていないからだ。しかし、人間は本来、そのような存在ではない。
これは伊勢志摩サミットを超える話だ。あのサミットで、20世紀までの人類が地球にもたらした矛盾を解決する画期的な対策を、何か打ち出しただろうか。
話し合われたのは、経済をさらに発展させるにはどうしたらいいかということだが、今の人類の経済に対する姿勢のままで経済を発展させたら、地球環境をさらに悪化させることになるのは周知の事実だ。にも拘らず、世界のリーダーたちは方や環境問題を語り、方やそれと矛盾する経済発展を追い求めている。そのように欲望を叶え続けることが、この世界の矛盾を連鎖させ、さらに大きくしている。
もう一つおかしなことは、資本主義国家だけが集まり、立場の違う国家を排除して自分たちの利害の元に一方的に世界を導こうとし、それを正義として掲げていること。それが今の世界の現実だ。テロの問題にしても、体制的に相いれない国を否定することで世界を安定させようとしているが、それは自らの利害関係の上に立っている以外の何ものでもない。
このサミットがなぜ行われたのかというと、そのように結束する仲間集めをアピールするために行われただけで、今の矛盾への解決策や、新たな時代の方向性を見出せていない、極めて20世紀型のものだ。そして、なぜ世界のリーダーたちがそろってそのような姿勢をとるのかと言えば、彼らを輩出している国家を形成する国民がそういった価値観を求めているからだ。そこから支持を受けている彼らは、本能的にそういった姿勢をとらざるを得ない。つまり、今の世界の矛盾はリーダーの責任ではなく、国民一人ひとりの責任なのだ。リーダーは、それにふさわしい人だから選ばれただけだ。
サミットでリーダーたちは演説を行ったが、それは表面的で言葉にも力がなかった。背景に自国の世論の圧力があるために、彼ら自身の明快な意志を表すことができないのだ。人々の欲望を駆り立てる時には、欲まみれの人々によって熱狂的な支持を受けるが、どんなきれいごとを語ろうとも、その姿勢に矛盾があっては、結局は筋の通ったものにはならない。背景にたくさんの利害関係が絡み合って、強いリーダーシップを発揮できなくなっているのが、今の世界の現状だ。
オバマ氏もあと8ヶ月で任期が切れるのだから、大統領としての立場を離れて一個人としての本心をあの場で語ったならば、もっと人の心を打つ演説になったかもしれない。しかしアメリカの大統領はスポンサーが多すぎて本音が出せなくなっており、それがアメリカ大統領の限界となっている。そこを突破する可能性があるのが、トランプ氏だ。
トップが民衆の顔色を伺う風見鶏のようになって強いリーダーシップが取れなくなった、ある意味終焉を迎えている国の末期症状として、トランプ氏のような人物が台頭してきた。国民は現状の矛盾に対する言いようのないフラストレーションを抱えており、それが彼らをトランプ氏支持に走らせている。
ではそのフラストレーションとは何か。これまでアメリカという国は、自分たちは世界を平和に導く善の国であるという自負の元にリーダーシップをとってきたが、その幻想が今、崩れようとしている。アメリカ人の中には自らが常に世界のトップに君臨していたいという感情があり、その実態は極めて身勝手で幼稚である部分も秘めている。しかし、対外的には「世界の警察官」という立場をとってきた。そのように、ある意味偽善者をやってきたことにより、国内に矛盾が発生し、豊かな国アメリカの影の部分に立つ人々に言いようのないフラストレーションが溜まり、それが限界に来ている。
これからの世界の国々のリーダーたちは、トップダウンのリーダーシップを取るのではなく、本音で語り合い、我々人間とはいったい何であるのかということを、これまで積み上げてきたものをすべて崩して話し合う必要がある。いじけている北朝鮮のような国も仲間に入れて話し合う。そういった意味では、トランプ氏は金正恩氏と話し合う用意があるというのだから、画期的かもしれない。
オバマ大統領にせよ安倍首相にせよ、今回集ったリーダーたちは今の体制や今までの価値観を守ろうとしている人たちだ。しかし、時代や社会的、環境的背景は、今や、これまでの人類の地球上でのふるまいを否定することを示すメッセージを発し続けている。だから、幻のように欲望の上に積み上げてきたものは、壊れなければならない。そういった矛盾をはらんだものを守ろうとすればするほど、サミットも単なるパフォーマンスの場となり、希望が生まれないどころか、利害の上に集う者たちがいれば、それに対抗する立場の者たちとの対立を深めることになってしまう。
オバマ大統領は、今回のサミット参加直前に、かつての敵対国であったベトナムを訪問し、友好の証として武器輸出の商談を成立させた。自らの強い望みとして核兵器のない世界をうたい、核兵器の拡散を防ぐと言いながら、その一方で通常の兵器を拡散し充実させており、その上に平和な世界を実現するという矛盾を語っている。
そして、核兵器のない世界を実現すると言いながら、すでに核を持っている国に対しては保有を認め、持っていない国には核を装備することを禁止する。事実、核兵器をなくすことに反対しているのは、核保有国だ。そのように矛盾している国々が国連の常任理事国であり、拒否権を持っている。こんなにも道理の通っていない世界秩序があり続けることを、おかしいと思わないのですか。みなさん。
そしてまたオバマ大統領は、かつて自国が核兵器を落とした地へ行って戦争の愚かしさや核をなくすことを訴えながら、その直前に米軍の岩国基地で行った自国軍への演説では「あなたたちは国家を支える重要な人たちだ」と激励し、やる気を起こさせている。軍人にやる気を起こさせるとはどういうことか。これが核兵器廃絶を願い平和を訴える者の、矛盾でなくて何だろうか。
しかし同時に、その訪問を受ける側の国の人々も、かつての敵国のリーダーが来たことだけで喜ばしいという、温厚なのかお人よしなのかわからない姿勢でいる。怒れとは言わないが、少なくともその言葉の奥にある実態を感じ取るだけの直観力を持ちたいものだ。
世界各国の代表が高級な車に乗り現れるのを見て、この国の人々は偉い人たちが来たと思い迎えたかもしれないが、アメリカ大統領の車はロケット砲でも通用しないような戦車のような車であり、戦艦が空を飛ぶような飛行機やヘリコプターを使い、常に厳重な警備の元に行動しなければならず、そういった立場に立った者の不幸というものがある。そしてその立場は、自らが招いている。そのような背景を知っていたならば、彼らをただ微笑ましく迎えるばかりではないとも言える。
そして今回のサミットには、600億円の費用がかかったと言う。それで世界の経済を発展させると言うのだが、ロシアも中国も参加していないのに、西側諸国だけが集まっていったい世界経済の何を語るのだろうか。この2日間のために28億5千万円をかけて建設されたメディアセンターは、サミット終了後には取り壊されると言う。そういったお金の使い方をしながら、一方では災害復興や原発の廃炉のための資金が必要だと言い、毎年大量の国債を発行して借金を増やし、消費税を増税すると言ったかと思えば、選挙の前にはそれも先送りする。やっていることが滅茶苦茶なのだ。
今、日本ではSEALDsのような動きがあるが、香港の傘兵の他、台湾やフィリピンなどアジアの各国で、若者たちが今の政治に疑問を投げかけ、新たな動きを起こそうとしている。しかしそれは、次の時代の呼び水にはなるかもしれないが、現行の体制に対する反発として条件反射のように出てきたものであり、それ自体が新たな時代のあり方として出てきたものではない。つまり、20世紀型なのだ。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、ガンジーの非暴力を掲げているが、実はそれもまた暴力だ。なぜなら、そこには対立軸があるから。彼らは優秀で、いずれ政治家になるのかもしれない。しかし世の中を変えるということからすると、彼らは今の体制があるからこそ、そこへの反発をエネルギーとして出てきたのであり、彼らの中から独自に新たなものが湧き出しているわけではないのだ。
もう新たな時代が地球上に来なければいけないのに、そのための指針を示せる場所が、世界中のどこにもない。19世紀、20世紀に発生したイデオロギーは、社会主義でも共産主義でも資本主義でも、人々の実際の生活につながっていた。ところが最近台頭してきたイデオロギーは、生活に密着していない。何か強大なものに対する反発として発生しており、単なる闘争になっている。
それをもう一度、生活に落とすというところへいかなければいけない。それを生み出すのは、智恵だ。イデオロギーも本来智恵であるはずだが、20世紀型のイデオロギーは智恵ではなく、怒りのエネルギーが元になっている。それが智恵となって湧き出した時に、若者たちは実際にその生き方を始めるだろう。そこがまだできていないから、今の若者たちの動きはまだ次の時代の受け皿にはならず、ただ大人たちがやっていることへの反発となっている。
香港の若者たちは中国の体制に反発し、それを壊そうとしている。それは体制側が今の状態に執着しているからこそ、それを壊そうとするエネルギーが働くのだが、そうしている若者たち自身も同じ立ち位置にいることに気付き、自らを壊さなければいけない。なぜならそれは、執着と執着の対立だから。これはかつての西側対東側、共産主義対資本主義といった構図も同じで、双方が共に壊した時にこそ、新しい世界を創ることになるのだ。
これはおもしろい分析だが、こんなことを語る年寄りの存在に若者たちは気が付かないから、なかなか伝える機会もない。この視点は彼らの情熱に水をかけるようなものだから、熱く燃焼することに邁進している彼らが、水をかけられるようなものに興味を示さないのも仕方がない。しかしあのままいくと、そのうちに火傷することになるだろう。
我々がやることは、ウケ狙いではない。ニセモノだらけになってしまった今の時代に、真実を、生命エネルギーを乗せて表現していく。
我々がいかに、土に触れ、自然と向き合いながら生きるということをやってきたか。そのエッセンスがここにはたくさんある。それと対話する能力をこれから開花させ、広めていく。机上の空論で理想郷を語っても、現実に成るわけがない。成るとは、地球はそもそもそういうところだということに気付くということだ。
久しぶりに、天の扉が開いた。
最近は上を見ると天井が見えていたが、久しぶりに天井を突き抜けて、その奥が観える。
これは個人的な偏った見解ではなく、必ず近い未来に人類が体験することを予言として語っているものである。それを感知できるような人類でなければ、これから訪れるであろう更なる困難を乗り越えることはできない。



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